2019年01月25日

第2回 桜山統合失調症研究会

第2回 桜山統合失調症研究会

日時:2019年1月24日(木)18:50~20:35

場所:名古屋マリオットアソシアホテル 16階「サルビア」

地下鉄 名古屋駅

主催:大日本住友製薬株式会社


製品紹介:18:50~19:00 ロナセン情報  大日本住友製薬株式会社

開会の辞:名古屋第二赤十字病院精神科部長  竹内浩先生



講演T:19:05~19:30

座長:南医療生活協同組合 メンタルクリニックみなみ所長
古水 克明先生

演者:名古屋市立大学大学院医学研究科  渡辺勝昭先生

「実地臨床で若手も使える認知機能に配慮した統合失調症治療」



講演U 19:30~20:30

座長:明知 龍男先生
名古屋市立大学大学院精神・認知・行動医学分野 教授

「統合失調症の当事者・家族。医療者がお互いを理解するために必要なことは?
〜医師資格を持つ当事者・家族として伝えたいこと〜」

演者: 夏苅 郁子先生

やきつべの径診療所


閉会の辞:公立陶生病院 メンタルクリニック  主任部長
太田 深雪先生

   終了後  情報交換会




感想


今回の研究会の参加は、名市大の渡辺孝文先生からの愛知県精神科心理ネットワーク研究会(代表・古村健先生)への会合案内によるものです。感謝申し上げます。

「桜山」という名前がついているのは、名市大医学部と病院があるのが、桜山という町にあるからということは、名古屋に住んでいる人ならすぐわかることだ。名市大病院のある、地下鉄の駅名が、「桜山」になっている。私の家は、桜山に近いところに住んでいるので、身近な気持ちがある。

参加者は、予想以上に多かった。椅子が不足状態であった。50~60名位の予想であったようだ。
100名以上の参加であった。

参加者は、医師、臨床心理士であったと思う。

情報交換会においては、東尾張病院の古村健先生に、司法精神医学の精神鑑定についての手続きについて、親切に教えて頂いた。感謝します。

講演T


名市大の渡辺孝文先生は、統合失調症の患者への「やわらかあたま教室(メタ認知トレーニング)」のG病院での実践報告をされた。

東大の石垣先生がMCTを日本へ導入され、東尾張病院(守山区)の古村健先生(博士・東京大)(愛知県精神科心理ネットワーク・代表)が、愛知県においても、紹介されているものです。

いよいよ病院に普及し始めたかなという感想を持った。
途中で中断する人は少なかったという。


病院で患者さんに紹介し広めていくには、10人前後が適当な数で、患者さんは、統合失調症、うつ病などの患者さんを相手にする。

このやわらかあたま教室は、患者さんの認知機能の改善のために行うものです。
パワーポイントによる画面上の状況について、自由な状況の理解の仕方を発表してもらう。

例えば、駅で会う約束した時に、相手が来ない状況について、どう考えるかという課題である。

答えは、3通りで、@自分のせい、A相手のせい、B状況による場合。

柔軟に考える力をつけることを目指す。

実践報告は、ドクターと看護師、作業療法士で行った。これぐらいの人数で出来る。
ドクターではなく、心理士がふつう実行する。

コーメディカルにまず理解をしてもらうことが必要であると、渡辺先生は言っている。


講演  U

本日の目玉は、夏苅郁子先生の講演だった。
パワーポイントを使って、ご自身の辛い人生の道のりを、穏やかに話された。

3つの壁を指摘された。

@患者・家族と医師の壁。

A患者・家族同士の壁。

B医師・看護師・その他医療関係者同士の壁。



今日は、「医師と患者・家族との壁」について話すと言われた。

これは、ご自分が、摂食障害の患者として、精神病患者としての長い苦しみ、辛い人生を送った経験、母親が統合失調症という不治の病になり、家族として味わった苦しみの体験、その母親を76歳で亡くなるまで看護した経験、自殺未遂を2度もされた。長い間の病人として、家族として差別を受けた苦しみと、仕返しをしてやりたい、見返してやりたいと言う復讐の気持、憎しみの気持を抱き続けたと、率直に表明された。その中で、患者として医師に接してきた経験から、当事者・患者と医師との壁というテーマを取り上げられた。

このテーマは、誰も医療関係者が取り上げることのないものではないかと思う。
「医師に質問が自由にできますか」、とか、「医師に自分の気持を自由に表現できますか」、「医師に要求を言えますか」など、医師と患者の人間関係、信頼関係、医師の質、医師の人間性、能力に信頼を抱いていますかという、日常の患者の医師に対する気持ちがどのようなものであるか、を問う、質問アンケートをネット上で行ったということだ。

こんなことはタブーだ。それをあえてやったということだ。なかなかできることではない。
ネット上で、アンケートをとったら、なんと7000人から回答があった。

これを医学論文として、投稿しようとしたら、初め、「エビデンスがないから」と拒否されたという経緯があった。
しかし、論文の査定段階で、かなりのやり取りの結果、採用され、医学雑誌に載った。

夏苅郁子医師は、型破りの医師だ。ユニークだ。医師の権威に正面からぶち当たっていく姿勢だ。こういう意味での患者に寄り添う医師だ。医師の能力を根本から問う姿勢だと思う。

これは、臨床心理士・公認心理師にもあてはまる、自戒すべき問題である。

改めて、医師自ら、医師の姿勢を問う厳しい姿勢には、敬意を表したいと思います。

夏苅郁子医師の著書、



人物紹介は、ウィキペディアの紹介を引用します。次の通りです。


私の感想は次の通りです。


小柄な優しい話し方をする、患者に寄り添うドクターだと思った。
自分を苦しめた、母親、父親への憎しみ、少女時代から青年時代に至るまで、病人として、家族として、受けた、差別に対して、憎しみ、怒り、見返してやりたいという復讐の人生だったと語る。

今は、両親は亡くなった。母は、76歳まで生きた。看護師の免許を持っていたので、勤務していたが、長続きしなかった。母とお金を出し合って、母の句集を角川書店から出した。勿論売れなくて、母の家に山積みになっていた。

今は、語ることによって、和解の気持ちへと動いていると話された。
飾ることなく、ご自分の気持ちを語られた。

今は、医師の夫と、焼津の街に有床診療所がつぶれないように経営している。資金は、クラウドファンディングで設立した。
ご自分の給料は、19万円、夫の給料は、36万円。自分の給料は、看護師の給料より低い給料だという。聞いて驚いた。

診療所は、街中の誰もが来やすいところにしたいと言う願いだった。山の上とか、街から遠く離れたところに精神病院がある。
現在の診療所開設には、住宅地帯である地域の町内会から、反対運動が起こり、集会で吊るし上げをされたという。診療所の写真を紹介された。母親の発病前の若い時の写真、老後の写真などを紹介された。

「ごめいわくはおかけしません」と言って了解してもらったという。
「やきつべの径」(やきつべのみち)は、万葉集の中の歌を紹介され、「焼津」であると説明された。
精神神経学会では倫理委員会委員の要職を務める。

 夏苅郁子医師が、母と会うことを拒否していたのを改めて、会うことになった切っ掛けになる漫画の本、「我が家の母はビョウキです」(2008年)(サンマーク出版)(1200円)の著者・漫画家中村ユキさんは、「おわりに」
で次のように、気持ちを述べている。引用します。

「みなさ〜ん、ココロの病には『統合失調症』(トーシツ)もありますよ〜・・・」
私は人生のほとんどを「家族」という立場でトーシツと歩んできました。
でも長い間、トーシツがどんな病気なのか、よくわっからないままいたのです。

自分から学ぼうとしなかったせいもあるけど、身近で詳しく耳にする機会がありませんでした。
もっと早くトーシツの正しい知識を持っていたら、母も私もこんなに大変な状況に陥ることはなかっただろうな〜と思うと、後悔と哀しい気持ちでいっぱいになります。

そんな経緯もあり、たくさんのヒトに「トーシツ」という病気を知ってもらえればと思ったのが、この本を描こうとと思ったキッカケでした。

中略

長い間、「死にたい」と泣き続けてきた母ですが、最近では「生きててよかった」と言うようになりました。
穏やかな時間が流れるようになり、日常生活での障害は残ったけれど、私は現在「トーシツ」を母のオマケくらいに思えるようになってきました。昔は大変だったけど、いまはとても幸せです!」

このマンガの本は、長い間、私はよまないまま、本棚においてありました。読んでみようと思います。

夏苅郁子医師の著書『人は、人を浴びて人になる』ライフサイエンス出版も読んでみたいと思います。

ウィキペディアの夏苅郁子先生の人物紹介は次の通りです。

「北海道札幌市生まれ。10歳のとき、母が統合失調症にかかる。家庭を顧みず収入を家に入れぬ父親とは疎遠であり、病んだ母親と二人の孤立した過酷な少女時代を送る。


両親が離婚した後、実家に引き取られた母と会うことを拒む。父の籍に残ることになったがもともと疎遠な父と暮らすことはなく、孤独と絶望から2度の自殺未遂。


友人の仲介により母と再会した。その後イラストレーターの中村ユキ著の「我が家の母はビョーキです」という本を読んで、母の統合失調症を真正面から向き合うことにした。



浜松医科大学医学部卒業後、同精神科助手、共立菊川病院、神経科浜松病院を経て、2000年やきつべの径診療所(静岡県焼津市)を開業。


現在は焼津市在住で、精神科医である夫とともに診療所を営む傍ら、その母の介護経験を基とした統合失調症の理解・啓蒙のための運動に取り組み、


2012年に「心病む母が遺してくれたもの〜精神科医の回復への道のり」を上梓した。 2017年8月21日『人は、人を浴びて人になる』ライフサイエンス出版 を上梓する。 全国各地域から講演依頼が殺到している。 」






posted by 花井英男 at 15:18| 研修

2019年01月17日

横綱 稀勢の里 ありがとう!!!

稀勢の里  有難う!!!



大好きな横綱稀勢の里が引退した。どうしてだろう?と思った。
日馬富士戦での、左の腕の断裂が原因だった。

引退の記者会見のTV放送は見られなかった。
1月17日(木)昼ごろのTV放送はどこも、稀勢の里をとり上げていた。

場所前には、TV放送は、練習相撲で、ずいぶん勝てるようになった、と伝えた。もう復帰できるかなと思わせる内容に思えた。

今迄、本人も記者たちも傷のことを隠していたことが分かった。

各局のTVは稀勢の里の歴史を振り返っていた。

通算800勝496敗。

モンゴル力士ばかり活躍する中で、
日本人力士の活躍する期待感は大きい。

新聞の見出しは、「けがと闘い、在位12場所」。「土俵人生に一片の悔いなし」。
「モンゴル勢と真っ向勝負」。「成長させてもらった」。

中日新聞の社説では、「綱の重みをかみしめる」というタイトルで、「新横綱として逆転優勝を決めた2017年春場所の13日目に左胸腕や左大胸筋のけがを負い、長引く後遺症から復活を果たすことは出来なかった。」


「絶大な人気があり、唯一の日本出身横綱の土俵の姿が見られない。寂しく感じる人は多いだろう。」

しかし、今場所、貴景勝や御嶽海ら新たな魅力ある力士たちが躍進し活躍している。

年寄「荒磯」の名で、横綱の経験を生かし、後輩の育成に臨もうとしている姿に大いに期待を抱きます。

横綱稀勢の里  ありがとう!!!


posted by 花井英男 at 21:12| スポーツ

2019年01月14日

プラハの春とチャスラフスカヤ

2019年1月13日(日)夜7時54分〜9時48分

現代史を歩く
日曜ゴールデンの池上ワールド
池上彰の現代史を歩く


〜Walking through Modern History〜
第13回 東京五輪の“名花”の激動人生
自由を求めた不屈の闘い プラハの春




チェコスロヴァキアの街は、まるで、建築の博物館をみるようなすばらしさがあると映像を写しながら、歴史的な建造物、橋などを紹介した。

番組はこのように始まった。


この番組を見て、改めて、プラハの春、それに続く、ソ連軍による弾圧、20年後のビロード革命の歴史の歩みを学んだ。



1968年1月5日  ドプチェクが、チェコスロバキア共産党第一書記に就任した。「人間の顔をした社会主義」を唱え、これまでの社会主義政権を改めようという健全な動きが出た。


この動きに対して、ソ連始め、ワルシャワ条約機構は警戒し、チェコスロバキアに対して、弾圧を開始した。
それに対して、

1968年6月27日  二千語宣言が、主要な新聞紙上に発表された。


「プラハの春」を支持する署名に参加した人の中には、東京オッリンピックで活躍した、チャスラフスカヤ、人間機関車・ザトペックもいた。

ソ連などは「反革命」の兆候であると受け取った。弾圧が始まった。

民衆は、武器を持たずに戦った。

チャスラフスカヤに対して、署名を撤回するように当局は働き続けた。しかしそれには応じなかった。
オリンピック直前にようやく出国が許可された。
メキシコオリンピックに、抗議の気持ちの黒(濃紺)のレオタード姿で出場したことは有名である。

1989年11月9日 ベルリンの壁が崩壊し、解放された。



その後11月16日までには、チェコスロバキア周辺のほとんどの共産党国家が、共産党一党独裁支配を放棄し始めた。

20年間の運動が実った。

1989年11月17日  チェコスロバキアで、ビロード革命(静かな革命)が成功した。

武器を使わない革命だった。
チェコスロバキア国民は、これら一連の動きを国内外のテレビ放送を通じてすべてリアルタイムで把握しており、反体制派の市民らは民主化デモの準備を進めた。

ビロード革命はこのようにして成功した。

チャスラフスカはハベル大統領のアドバイザー及びチェコ・日本協会の名誉総裁に就任した。大統領府を辞した後には、チェコオリンピック委員会の総裁も務めている。
現在に至る。

チャスラフスカヤは、体操選手の資格を奪われ、身をひそめて生活したり、清掃婦として生活をした、というエピソードが紹介された。

チャスラフスカヤは、2011年には、東日本大震災には、日本を訪ずれ、見舞いに東北に来た。
101才の国際審判員を務めた、日本人女性を訪れた。

2016年74才、がんのため亡くなった。2020年の東京オリンピックには、行くからと言っていたことを紹介した。

何よりも、二千語宣言に署名し、民主化運動に参加し、筋を曲げなかったことを賞賛したいと思います。



posted by 花井英男 at 15:45| 戦争・平和