2016年03月28日

国東半島 史跡めぐりの旅

国東半島 史跡めぐりの旅
3月25日(金)〜26日(土)

 

長年の家内への感謝の気持ちを込めて久しぶりに旅行をした。
家内が別府に一度行きたいというので、中部空港から大分空港に飛んだ。所要時間1時間。新幹線で行けば、いくだけで、長時間の乗車で疲れてしまう。


別府と湯布院を世界の温泉地として紹介した功績をたたえた、別府駅前のブロンズ像油屋熊八を見て、別府地獄組合の地獄めぐりをした。
今は、韓国人とか中国人が多いのだろうか。ハングル語と中国語の案内がある。
日本語の読み方が難しい、地名が沢山出てくる。
鉄輪―かんなわ、日出―ひじ、田染(たじみ)、国東(くにさき)

昼食は、りゅうきゅう丼(大分名物という)マグロ丼のようなもの。


関アジ、関サバが食べたかったが、中々それは食べられないことが分かった。
コバルトブルーの海地獄、グレーの球状の鬼地獄、珍しい地球の底から湧いてくる現象を見た。

夫婦お互いが健康で生きられるのはうれしい。足取りも重くなってきた。
初日は、7千歩だった。


2日目は、定期観光バスで、別府駅9:15発、大分空港16:00着の国東半島史跡めぐり。


この日は、9千歩以上歩いた。

話のうまい熟練したガイドさんだった。
是非、伝える時は、「美人」のガイドと伝えてほしいとのことだった。
ガイドさんの解説は、ベテランで、ユーモラスで、歌も上手で、最高のガイドさんであった。
こんなガイドさんに出会えて幸せだった。

大分は、海産物と温泉で、何もいい所がないという印象が、国東半島めぐりで吹き飛んだ。

宇佐神宮というすごい神宮を参拝した。
宇佐神宮のホームページよれば、下記の通り。
 ガイドが、「みなさん!!!USAに着きました。日本にいるのに、USAに来ました。」と言いました。

「全国約11万の神社のうち、八幡さまが最も多く、4万600社あまりのお社(やしろ)があります。」

「725年(神亀2年)、現在の地に御殿を造立し、八幡神をお祀りされました。」

「東大寺の大仏建立や道鏡の神託事件の時など、数々のご神威をあらわし皇室を護られたことで朝廷から厚く信仰されてきました。」

伊勢神宮に続いて、皇室とつながりの深い所。



一番感心したのは、天台宗の仏教遺跡群である。


 718年開基の富貴寺(蕗寺)は、この地にあった、榧(かや)の大木、1本で立てられたと伝えられている。
しかし、荒れ放題になっていたのを改修して観光客に見せられるようにした。子どもの遊び場、野生動物のすみかとなっていた。

檀家はない。世話している僧侶が観光客に説明をしてくれた。創立の頃は素晴らしい彩色だった。この辺は、修行僧が沢山住んでいたという。

昼食は、富貴寺で大分名物、団子汁を食べた。
「ほうとう」のようなもの。終戦直後に食べた、「すいとん」に似ている。ひらたい、うどんのようなもので、だんごではない。本当に軽い食事。


この寺の解説を聞いた後、土地の物を売っている男の人は、話し好きの人だ。
ここで、イチジクの乾燥した物を買った。サクランボの乾燥した物も売っていた。
この店の店頭に、お婆さんが座っていると思ったら、なんと、案山子であった。
 この地方では、田んぼに案山子がある。沢山の案山子の子どもたちが観光客を迎えるポーズで田んぼの中に手を挙げて立っていた。


ガイドさんによれば、
この地方には、このように、檀家もない、坊さんもいない、お寺が30位あるという。修業を積めばここの僧侶になれるとガイドさんが言っていた。

こんな田舎にこんなにたくさんのお寺が出来たのは、昔、阿弥陀仏信仰が流行したから。


熊野磨崖仏


 写真集で、熊野磨崖仏の存在は知っていた。
まさかこんな風に訪れるとは思わなかった。
磨崖仏を見て信仰の深さを実感した。


熊野磨崖仏は、大分県豊後高田市にある平安時代後期のもので、国の重要文化財及び史跡に指定されている。

平安時代後期の作と聞いて驚く。

鬼が一夜で築いたと伝えられる乱積みの石段。
手すりがつけられている。
果たして、磨崖仏のところまで行けるだろうかと思うほど、乱積みの石段を上った。

不動明王像


 向かって左、高さ約8mのの不動明王半身像。
風化が進行しているため、口元に柔和な笑みを浮かべているようにも見えます。なかなかユーモラスです。

 
大日如来像


 向かって右、高さ約6.7mの大日如来半身像。
不動明王像よりも制作年代が下ると推定されています。こちらの仏様は厳かな雰囲気です。

 こんな高い山の上に、石仏を彫ろうと思う信仰心はすごいと思った。




posted by 花井英男 at 07:58| 旅行

2016年01月28日

銘酒「勲碧」の里を訪ねる

江南市布袋
銘酒「勲碧」(くんぺき)の里を訪ねる

2016年1月26日(火)午後1時〜4時半
名鉄犬山線布袋駅集合

愛高教退職者の会 1月月例会


 24名が参加した。久しぶりに会う人と話がはずむ。竹山さんに会った。「原さんどうした?」消息を尋ねあう。「ご主人はどうしている?」
「実家は無言館のほうですか?」、「いや、高遠の方」とか、信州に旅行に行ったことを話す。

今回の案内人は、一宮地域の高校に勤務した村瀬さんだ。村瀬先生の熱心な解説と膨大な資料の準備にはほれぼれとした。昔の先生の教室の姿を見る思いだ。


もらった資料は、1.江南市文化財マップ、2.当日用のマップ(A4)、3.当日用の詳しいマップ(B4)、4.信長・秀吉ゆかりの地 武功夜話のふるさと 史跡めぐり 江南市小折
(生駒屋敷、久昌寺、富士塚、常観寺)(30余頁・A4)5.清酒 勲碧 酒蔵 見学資料 (A4・12頁)

 布袋駅から、町の中を歩いて、富士塚を目指した。途中、尾北高校を左手にみながら、住宅地帯を歩く。途中、畑の土の色を見て、すばらしい土質だと気づいた。


富士塚の碑
 
富士塚は、小さな山で、高さ13mの古墳。小牧・長久手の戦いで家康が織田信雄と共に、富士塚に上り、敵状を視察した地である。はるかかなたに、小牧城が見える。頂上に、生駒家の由緒と武勲を刻んだ碑が立っている。


村瀬先生は、碑の原文と現代語訳と生駒家の家系図、生駒屋敷絵図をB4に印刷してくれた。大正時代の小折(こおり)の街並みも。現代語訳は面白い。



勲碧」の酒蔵を訪問


富士塚のあと、本日のメイン・銘酒「勲碧」の酒蔵を訪問。雑菌を嫌うということで、スリッパに履き替え、杜氏兼社長から、酒造りの工程を聞いた。中村高校の卒業生であり、懐かしい恩師の名前を発表。
 酒造りの工程表を村瀬先生は、丁寧に印刷してくれた。
酒造りの好適米の性質、特性。好適米の全国的に主なものの一覧表など資料を豊富に作成して頂いた。ゆっくり読んで勉強したい。

 村瀬先生有難う!!!


 皆が試飲をさせていただいた。甘口である。私の好みである。私はほとんど酒は飲まない。いつも、ほんの2,3杯である。
 甘酒もご馳走になった。酒かすと砂糖と塩でおいしく、甘酒が出来ると、当家のおばあちゃんから教えてもらった。自宅でおいしい甘酒を作ることが出来た。



この後、久昌寺、生駒屋敷、常観寺を回った。





「武功夜話」


織田信長と豊臣秀吉の家臣であった前野家の出来事を江戸時代初期から、前野家の当主が、長い年月をかけて「武功夜話」21巻にまとめた。

伊勢湾台風の時、この当主(吉田家)の土蔵から発見され、貴重な歴史資料として脚光を浴び、織豊期の江南市域の歴史が明らかになった。

 遠藤周作がこれをもとに、小説「男の一生」を著し、信長・秀吉の家臣前野や蜂須賀らの活躍を描いているという。



久昌寺 訪問


この布袋地方は、織豊政権と結びつきが深い。信長は、小折村の生駒氏の屋敷に遊行した。生駒家長の妹「吉乃」との間に、信忠、信雄、徳姫をもうけた。

 信忠は信長の長子、本能寺の変で死亡、信雄は徳川家康と結び、秀吉と対立、小牧長久手の戦いで争う。徳姫は、家康の嫡子・信康に嫁す。信康・築山殿の謀反を知らせる。


吉乃は、信長の側室となり、2男、1女をもうけるが、29才で死ぬ。1,566年(永禄9年)吉乃は、久昌寺に埋葬された。1384年再興された久昌寺は、生駒氏の菩提寺。子孫は名古屋に住む。檀家は数少ない。広い境内と立派なお寺の建物と由緒ある墓が並ぶ。今は史跡として掲示版が出ている。


 この地域に多い、「土田」(どたという)姓の檀家の老人が境内とお寺の管理と手入れをしていた。NHKの大河ドラマ「信長」が放送されたとき、役者たちが寺に来訪した。 


生駒屋敷 訪問


一方、生駒屋敷(小折城)(平城)は、生駒家は大和の生駒山出身で、尾張の国小折村に移居1469〜1501が初代。生駒氏は、灰(染物の原料)と油を商う馬借(運送業)で財を蓄え、大きな勢力を持つ。

 村瀬先生によると、昔、木曽川の支流が網の目状に流れるこの地域は、交通の要所であり、豊かな生産力を持つ。信長は、川並衆(蜂須賀小六らのちの戦国武将)や有力な武士と結び、経済的、軍事的な力を身につけて行った。


 信長に仕えるようになり、豊富な財力、情報網などから信長の後ろ盾となっていく。


 小折城・生駒屋敷は小折郷中の大半を占め、小折の街は小さいながら、城下町であった。
 永禄の頃、小折城は、その戦力・財力は尾張平定のための拠点として役目を発揮したという。

 関ヶ原の合戦の時は、東軍の味方を決意。尾張藩が成立し、利豊が藩士となってからは、小折は、食邑の中心地となり、名古屋城下に屋敷を持った。
中略

 生駒屋敷の跡は、現在保育園となり、生駒屋敷扯碑が立っている。



常観寺 訪問


久昌寺の末寺で、鋳鉄の地蔵菩薩で知られる。鋳鉄の地蔵菩薩は尾張地方独特だという。地蔵菩薩は、継母の子どもへの虐待のエピソードを持つ。



最後の訪問地 菓子処 大口屋訪問


創業文政元年1818年。麩菓子で有名。布袋駅から500m。結構遠い。10個約1300円。
 家内からぜひ買ってくるように言われた。素朴な味だ。娘に食べてもらおうと、得意になって話したら、ずいぶん前に、江南の大口屋を知っていた。
  全部で1万3千歩歩いた。すばらしい1日であった。
posted by 花井英男 at 20:53| 旅行

2015年12月08日

小豆島への2泊3日の旅行

小豆島へ旅行


 二人で、12月3,4,5日、2泊3日の小豆島へ旅行をした。
 取り留めもなく書いておきたいと思います。

 小豆島は、オリーブで有名で、一度行きたいと思っていた。姉が小豆島に行ってきたというので、ぜひ行きたいと思った。

 小豆島は、加藤清正が来て、大阪城へ石を出した歴史があり、その痕跡を残す。
大阪城残石記念公園だ。ここは行けなかった。

 小豆島の山々は、石がむき出しになっており、独特の山の形をしている。
石の生産地ということで、石の製品をいろいろ売って居る。

 地元の人は、「ひしお・醬の郷」と言う。醤油の蔵、醤油工場が島内に沢山ある。街を歩いていると、香ばしい匂いがしてくる。これは麦を炒っているとのこと。醤油の製造過程だという。

「ひしお丼」というから、さぞうまいものを売っていると思った。ご飯にしょうゆをかけたものだ。豚肉の天ぷらときゅうりが一本のせてあった。

 歴史のある、ひしおの会社の、マルキン記念館を訪ねた。醤油の博物館だ。島の醤油製造は、400年以上の歴史があるという。

 壺井栄の出身地であり、「二十四の瞳」の映画が製作されたところが、映画村として保存されている。岬の先端にある。映画のセットとして作られた、分教場は、海岸の近くにあり、風情がよい。子どもたちの甲高い声が聞こえてきそうだ。壺井栄文学館が映画村の中にある。島の観光の中心地である。

 日本で唯一、オリーブに栽培に成功した土地、小豆島。順調ではなかったようだ。
明治41年(1908)に小豆島にオリーブが導入された。試行錯誤を重ねた歴史を持つ。

 島の中には、オリーブの木がいたるところに植えられており、黒く熟したオリーブや緑色のオリーブがごろごろ木の下に、落ちていた。
 オリーブ公園・オリーブ記念館と周辺にいろいろ見どころが沢山ある。そばに、オリーブ園がある。

 オリーブの古木がすごい。

 オリーブの丘には、文明の塔・オラトリオ(祈りの家)がある。1586年、島民1400名がキリスト教・カトリックの洗礼を受けた。キリシタン大名、小西行長が、高さ15メートルの十字架を建て、幸せを願ったという。土庄町立図書館に調べものがあり訪ねた。そばのカトリック教会に村にカトリックの宣教師が来て沢山の人が洗礼を受けたという歴史上の記録が掲示されていた。多分隠れキリシタンのこともあっただろう。

 乾燥した気候が、そうめん製造によく、そうめん工場もある。

 寒霞渓(かんかけい)という紅葉と景色のよい所は、当日は、日本中が風が強くとても行けそうにないと、バスの運転手の勧めで行かなかった。寒霞渓は国立公園指定第1号 名勝寒霞渓という。きれいな絵葉書がある。

 オリーブバスの1日乗車券を購入した。バスの運転手が親切である。 11月のシーズンは、フェリーで、観光バスが20台も来て、島の中の狭い山道は渋滞し、大変な待ち時間もでたという。バスとバスのすれ違いに気を遣ったと言っていた。

 小豆島には、観光案内のチラシが沢山ある。
「迷路のまち」というチラシがある。戦乱からのがれるために、或いは、海賊から身を守るために、迷路が作られたなどと書いてある。

 今は、エンジェルロードという名前がついている。プラスティックのバケツの上に丸い大きなボールが置かれ、それに目や鼻、口を子どもたちが書いたものが街の中に、一杯、置かれている。街の雰囲気をなごませる。街の人は、親切で、バス停の場所を聞いたら、車で土庄港まで、私たちを送ってくれた。高齢者が多くなっていると言っていた。


 迷路の中の、西光寺の墓地の入り口に、立派なこじんまりとした、尾崎放哉(おざきほうさい)記念館がある。土庄町(とのしょう)が管理しているのだろうか。若い女性が質問に丁寧に答えてくれた。よく勉強しているようだ。

 大正14年(1925年)、42歳で亡くなった。俳号放哉という、数々のエピソードを持つ、奇人だったようだ。 乞食どうぜんの放哉を寺の住職など、近隣の人が面倒を見たという。周囲の人が扱い兼ねた人物だったようだ。

 放哉記念館には、展示物が沢山出ており、展示目録をくれた。年譜とか作品一覧(南郷庵にて)をくれた。
  

 南郷庵跡、放哉記念館にある、句碑の作品は、「いれものがない両手でうける」、
 「翌ハ元旦がくる佛とわたくし」 井泉水句と併刻。、
 記念館竣工記念碑「障子あけて置く海も暮れ切る」

 自由律俳誌「層雲」に寄稿した。
 筑摩書房から、全3巻の全集が出ている。山頭火と並ぶ業績を持つという。日本文学史にも出てくるという。

 作家吉村昭が伝記を書くために関係者に取材したら、「どうしてあんな人間の伝記なんか書くのか」と言われた。世話する周囲の人を困らせ、人間的な面はでたらめの面があったようだ。
  吉村昭 『海も暮れきる』 講談社文庫(1985年)は、NHKで作品が放送されたという。

 放哉の作品は、西光寺の境内に句碑があった。
 それは、「咳をしても一人」、山頭火句と併刻。
 荻原井泉水とも親交があった。


 最後に、小豆島特有の土産物の話。土産物は沢山あったが、私のお気に入りはオリーブの漬物。
「新漬オリーブ」これは、オリーブの塩漬けである。100g。600円。緑色の取り立てのオリーブで作るから、オリーブの収穫時にしかない。さっぱりとした塩漬けのオリーブでおいしい。

 島には、小豆島オリーブ協会があり、会員企業が33社ある。

 小豆島には、八十八か所霊場がある。島の中には、89か所あるという。地図がある。

 新婚旅行以来数十年ぶりの旅行だった。結構面白いところだった。
posted by 花井英男 at 19:21| 旅行