2017年11月26日

岐阜県根ノ上高原  あかまんまロッジ 訪問

あかまんまロッジ  岐阜県中津川市根ノ上高原
あかまんまロッジ!!!  永遠なれ!!!




「あかまんま」とは、「いぬたで」のこと。夏から秋にかけて、紅紫の小花を穂状につける。あかのまま、あかまんま。俳句の季語、「あかのまんま」、「蓼の花」の地方の訛りの言葉であると思う。私は見たことがない。

子規の俳句に、「いぬたでの花くふ馬や茶の煙」がある。
虚子の俳句に、「ごみすてて汚からずやあかまんま」がある。

あかまんまロッジの奥さんが、「あかまんま」に思い入れがあり、ロッジの名前に「あかまんまロッジ」と名付けたと聞いたことがある。写真であかまんまを見たことがある。

今は、根ノ上高原にある、宿主のいるただ一軒の宿泊施設である。
近所には、民家は一軒もない。山を下りないと民家はない。


保古の湖の水面は静かだ。紅葉した葉がきれいだ。高原の林、古木が並ぶ。遠くに、雪の峰がみえる。


トラックで、馬を4頭くらい乗せてきて、馬術の愛好者が数人練習をしている。


芝生の広場で、3人の小学生がサッカーボールで遊んでいる。


退職して20余年ぶりに、訪れた。
根ノ上高原にあった、「岐阜県恵那市営保古の湖ユースホステル」に生徒たちと、毎年、夏の合宿に来た。

ここへ、愛知県立惟信高校(いしんこうこう)在職中、演劇部の生徒たちと夏の合宿に3泊4日で、保古の湖ユースホステルに滞在した。涼しくて快適だった。


毎年、ここへくるのを生徒たちは楽しみにしていた。
演劇部顧問として、望月先生と何回も来た。彼が転勤して、次には、竹内先生と来た。


当時は、JR恵那駅からここまで、バスが走っていた。生徒たちはバスできた。今はなくなった。
当時、私は、名古屋から車で来た。


保古の湖ユースホステルが、恵那市の事情でなくなり、主人夫婦が「あかまんまロッジ」を近くに、建設した。井戸を掘り、水道水、風呂に使っている。太陽光発電を使用して、家の中の換気に使っているという。


ご主人夫婦の設計による、木造のロッジだ。
標高900m、近くには、岩村城跡、馬篭がある。日本一の田園風景がある。
新築のロッジには1回だけ、生徒たちと泊まった。

国道19号線で名古屋から来た。
麓からここへ車上がってくるのは、当時は平気だった。
今回も、車で上がってきたが、これでもか、これでもかというくらい、遠かった。


建設には、ユースホステル時代のアルバイトをした青年とか、赤尾さん夫婦とのつながりのある人たちが参加したという。


有志の皆さんが、手弁当をもって建設に参加したという。
今でも、当時、建設に参加した人の長靴のあとが、食堂の天井に2つついている。

御主人の許可を得て、青年達が、記念に長靴の跡を天井に残した。


退職して、20年ぶりの訪問だ。玄関で「こんにちは」と何回も挨拶するが、返事がなかった。いるだろうか?
ようやく、奥さんの声が聞こえた。
久しぶりの再会であった。元気そのもの。


四方山話をしていると、ご主人の赤尾さんが帰宅された。「お元気で何よりです」と挨拶した。
昔と変わらぬ元気なお顔だ。固く握手をした。

70歳になられた。私は77才。
夕食の時、昔話に花が咲いた。どれだけ話していていても止まらない。


奥さんの食事がおいしかったという思い出を述べた。奥さんから、今晩は、ジビエの料理を出しますと言われた。ちょうど手に入ったからと。イノシシの肉だという。念願のジビエにようやくたどり着いた。ジビエを一度食べたいと思っていた。うれしい。

当時、生徒たちが昼中、演劇の練習をしていると、
当時、赤尾さんから、「先生、恵那山にでも登っておいで」とよく言われた。


生徒たちは、自分たちで、パンフを作って持参して、木陰で練習した。
生徒たちは、食前に、独特の言葉を言って皆を笑わせていた。
もう忘れてしまった。


私は、2学期の教材(英語)の勉強をしたり、2学期の実力テストの問題作成をした。


今回は、二人部屋に泊まった。暖房を入れて頂いた。部屋の作りは、木材でしっかりした構造で感心した。
トイレは最新式である。ウオシュレットも最新式。
お風呂も清潔で広い。ちょうどいい湯加減。


野草・草花のドライフラワーがロッジの中にそこらじゅうにある。2階からベランダに出ると星空が見えた。
見てすぐ気に入る、版画の小さい作品がロッジの中にいたるところにかけてある。


「素晴らしい版画ですね」と声をかけると、作者の名前とか教えて頂き、展覧会の案内をしてあげると、奥さんが言ってくれた。
赤尾さん夫婦は、この地方の文化人だ。有名人だと思う。


娘さんがニュージーランドに住んでいるので、近いうちに、仲間と訪れる予定だという。スカイプで娘さんと話されるとのこと。3人の息子、娘さんは独立された。


一晩泊めて頂き、付知峡に向かった。

このすばらしい、あかまんまロッジがいつまでも、続いてほしい。

   「あかまんま思い出のロッジ人集ふ」

   「あかまんま憩の宿の老オーナー」

   「冬茜高原の宿変わりなく」

   「雪の嶺湖面静まる山の宿」

   「高原の思い出楽しあかまんま」





posted by 花井英男 at 10:38| 旅行

2017年09月22日

奈良への旅行

奈良への旅行



9月中旬に、家内と、法隆寺、唐招提寺へ旅行をした。大和路への旅行をしたいと思ったのは、日本への仏教の伝来に関心を持ったから。

日本の仏教の歴史は、6世紀にはじまる。538年、欽明天皇の朝廷に百済の王が、使臣をもって仏像、経巻を献じたのが始まりだと言われている。


法隆寺の建立(607)、東大寺の建立(752)、唐招提寺(759)に至る時代に焦点があてられる。

鑑真誕生から、渡航、日本での活躍、死去までの経過は次の通り。

鑑真誕生(688)、
鑑真渡日を決意(742)

密告を受け、第1次渡航失敗、第2次渡航計画するが出帆後失敗(743)、
栄叡(ようえい)、捕えられ、第3次渡航失敗(744)、

天台山巡礼を口実とする出帆する第4次渡航失敗(744)、
遭難して海南島に漂着、第5次渡航失敗、広州に向かう(749)、
華南から揚州への帰路、失明(750)、

10月、遣唐使に揚州で来日を要請され、11月、蘇州から出帆、沖縄を経て、
12月、秋妻屋の浦(鹿児島)に到着、大宰府に入る。(753)

2月入京、3月、授戒一任の勅を受ける。4月、聖武天皇夫妻、孝謙天皇に授戒。(754)
東大寺に戒壇院が完成。(755)

唐招提寺建立(759)
弟子の忍基ら、肖像を作る、(763)
5月6日没(763)


この頃、中国でも、西域でも、インドでも南海の国々でも知的、宗教的、芸術的活動が力強く営まれていた。新しい日本文化の動きが、このアジアでの文化の潮に大きく影響を受けた。


長い間、未開の状態であった日本は、百済との交流、遣隋使、遣唐使による中国との交流が盛んに行われた。渡来人の働きが、飛鳥、奈良時代において大きな役割を果たした。

鑑真和上の日本への渡来は、感動的な出来事と私には思われる。唐招提寺の御影堂の障壁画に関わって、東山魁夷の10余年にわたる制作過程には、鑑真和上の研究が含まれる。

井上靖が、「天平の甍」に、鑑真研究の成果が盛り込んだと言われている。
鑑真和上の研究書は、東野治之著「鑑真」 岩波新書が詳しい。


今回の旅行は、全体的に、ジパングを使い、JRを利用した。
初日は、JR「法隆寺」駅からバスで法隆寺へ行った。広大な古い土塀に囲まれた法隆寺の境内にまず圧倒された。

工事中の所もあった。五重塔の中の粘土による仏陀の生涯のエピソードの像が印象的だった。
7世紀初めの頃に、こんな仏像制作が良くできたものだ。建築にしてもこれだけの技術があったのだ。エンタシスの柱は有名だ。渡来人の活躍があった。ボランティアのおじいさんが丁寧に写真を見せて話をしてくれた。

修学旅行の子ども達が、次から次へとガイドに導かれ歩いていた。
お昼の弁当は、大阪駅で買った懐かしい「柿の葉寿司」だ。


宿は、近鉄奈良駅の近くの旅館に泊まった。朝食付きの安い宿だ。商店街をぶらついて、奈良漬けを土産に買った。


JR奈良駅も近鉄奈良駅も、奈良公園付近も懐かしい。奈良教育大学大学院に1年間通ったので、奈良は懐かしい。興福寺の境内をぶらついた。鹿のふんがあちこちにあり、歩くときに注意をする。



2日目は、早朝から、唐招提寺にバスで出かけた。西ノ京唐招提寺。
鑑真が3種類の蓮を持参したという、その蓮が今も咲いているという。蓮の手入れを坊さんたちがしているという。鑑真が仏教を本格的に伝えたと考えられる。井上靖の小説はまだ読んでいない。当時の様子が丹念に書かれているという。ぎっしりと活字の詰まった内容で、読むのが大変だ。


雨の中の唐招提寺だった。しっとりとしていた。早朝だったので、人影も少なかった。芭蕉の句碑はどこですかと、掃除をしている人に聞くと、地図を首にぶら下げていて、親切に教えてくれた。法隆寺と比べて、唐招提寺は、森の中にあるお寺だ。蓮の池があった。数十種類の鉢植えの蓮もあった。


「古寺巡礼奈良8 唐招提寺」の本を買った。俳優の滝田栄、唐招提寺執事長、研究者・東野治之など著名人の執筆の文章が載っている。

帰りにバス停の近くにある酒店で、「天平に甍」という地元の酒を購入した。
台風が接近しているがまだ大丈夫だ。




posted by 花井英男 at 10:13| 旅行

2016年09月10日

2泊3日の宗谷、利尻島,礼文島、稚内の旅  (第3回)

第3回
3日目・8月29日(月)天候、曇り、強風、雨。そして晴れ。


朝、礼文島から、フェリーで稚内港へ。2時間。


稚内港の、北防波堤ドームの見学。


これは、次のような説明がなされている。ドームのスケールは大きい。
少し長いが引用する。

「北埠頭が旧樺太航路の発着場として使われていたとき、ここに通じる道路や鉄道へ波の飛沫がかかるのを防ぐ目的で、昭和6年から昭和11年にかけ建設された防波堤です。

 樺太へと渡る人々で賑った頃のシンボルでもあり、古代ローマ建築物を思わせる太い円柱となだらかな曲線を描いた回廊は、世界でも類のない建築物として内外の注目をあびています。

 半世紀を経て老朽化が著しかったため、昭和53年から3年間、全面的に改修工事が行われ、昭和55年にその独特の景観がよみがえり、高さ13.6m、柱の内側から壁までが8m、総延長427m、柱の総数70本、半アーチ式の構造形式です。2001年に北海道遺産に指定されています。」

ここでは、色々な催しが今、行われるという。
もうひとつ印象的なものは、
稚泊航路記念碑。


説明文を読まれたい。
以下引用。

「大正12年、鉄道省により稚内〜大泊間に連絡航路が開設されました。

 以後終戦の昭和20年8月に閉鎖されるまでの22年間の業績を讃えるため、昭和45年11月に建立された記念碑です。

 「稚泊連絡航路」22年の歴史の中で行き来した乗客は284万人にものぼります。

碑文

 この地稚内から、いまは異国の地、樺太大泊に、国鉄稚泊航路が開設されたのは、宗谷線が稚内まで全通した翌年の大正12年5月1日である
 「この航路は、167kmの海上を約9時間を要し、ときに宗谷海峡特有の濃霧、あるいは結氷、流氷との悪戦苦闘によりまもられてきた
 昭和2年砕氷貨物船亜庭丸(3,593t)が就航するに及び、その往還は飛躍的に繁栄の一途をたどってきた
 しかし、終戦直後の昭和20年8月24日18時、22年にわたる歴史的使命を終え、その幕を閉じたのである
 今ここに星霜20有余年、稚内桟橋がその面目を一新するときにあたり、有志相図り稚泊航路の輝かしい業績と、幾多先人の苦労を銘記してこの碑を建立し、永久に記念するものである


 昭和45年11月吉日」


稚内副港市場内で昼食。食後、土産物の店を見る。



樺太ノスタルジーといして、 「樺太庁豊原中学校」の教室を再現しているという。稚内とゆかりの深い樺太の情報も多数展示しているという。ここにはいかなかった。北海道には樺太を懐かしむ、雰囲気がある。



昼食後、ノシャップ岬に行く

「ノサップ岬」ではない。

ここでは、風雨がひどく利尻を望むことは出来なかった。
印象的なのは次のもであった。
昭和天皇行幸啓記念碑

九人の乙女の碑


碑文は次の通り。

「戦いは終わった。それから5日、昭和20年8月20日ソ連軍が樺太真岡上陸を開始しようとした。その時突如、日本軍との間に戦いが始まった。戦火と化した真岡の町、その中で交換台に向かった九人の乙女等は、死を以って己の職場を守った。
 窓越しに見る砲弾のさく裂、刻々迫る身の危険、いまはこれまでと死の交換台に向かい『みなさん、これが最後です。さようなら、さようなら……』の言葉を残して静かに青酸カリをのみ、夢多き若き尊き花の命を絶ち職に殉じた。戦争は再びくりかえすまじ。平和の祈りをこめて尊き九人の霊を慰む」


更に、
戦争による痛ましい記念碑。


樺太島民慰霊碑 氷雪の門


碑文は次の通り。引用する。


「碑文

人々はこの地から樺太に渡り、樺太からここへ帰った
戦後はその門もかたく鎖された
それから18年、望郷の念止みがたく樺太で亡くなった多くの同胞の霊を慰めるべく、肉眼で樺太の見えるゆかりの地の丘に、木原豊次郎氏、笹井安一氏の熱意と、全国樺太連盟の賛同、並びに全国からの心あたたまる協力によって、ここに記念碑を造る
氷と雪のなかで、きびしく生き抜いた人々を象徴する女人像、望郷の門、霊石を三位一体とする彫刻家本郷新先生の力作がここに出来上がった
この記念碑を氷雪の門と命名した。」



南極で活躍した樺太犬の功績をたたえた、樺太犬供養塔。



ノシャップ岬見学後は、サロベツ原生花園を見学。

稚内空港から県営名古屋空港へ帰着。


北海道旅行はこれで終わり。




posted by 花井英男 at 09:23| 旅行