2016年09月10日

2泊3日の宗谷、利尻島,礼文島、稚内の旅  (第3回)

第3回
3日目・8月29日(月)天候、曇り、強風、雨。そして晴れ。


朝、礼文島から、フェリーで稚内港へ。2時間。


稚内港の、北防波堤ドームの見学。


これは、次のような説明がなされている。ドームのスケールは大きい。
少し長いが引用する。

「北埠頭が旧樺太航路の発着場として使われていたとき、ここに通じる道路や鉄道へ波の飛沫がかかるのを防ぐ目的で、昭和6年から昭和11年にかけ建設された防波堤です。

 樺太へと渡る人々で賑った頃のシンボルでもあり、古代ローマ建築物を思わせる太い円柱となだらかな曲線を描いた回廊は、世界でも類のない建築物として内外の注目をあびています。

 半世紀を経て老朽化が著しかったため、昭和53年から3年間、全面的に改修工事が行われ、昭和55年にその独特の景観がよみがえり、高さ13.6m、柱の内側から壁までが8m、総延長427m、柱の総数70本、半アーチ式の構造形式です。2001年に北海道遺産に指定されています。」

ここでは、色々な催しが今、行われるという。
もうひとつ印象的なものは、
稚泊航路記念碑。


説明文を読まれたい。
以下引用。

「大正12年、鉄道省により稚内〜大泊間に連絡航路が開設されました。

 以後終戦の昭和20年8月に閉鎖されるまでの22年間の業績を讃えるため、昭和45年11月に建立された記念碑です。

 「稚泊連絡航路」22年の歴史の中で行き来した乗客は284万人にものぼります。

碑文

 この地稚内から、いまは異国の地、樺太大泊に、国鉄稚泊航路が開設されたのは、宗谷線が稚内まで全通した翌年の大正12年5月1日である
 「この航路は、167kmの海上を約9時間を要し、ときに宗谷海峡特有の濃霧、あるいは結氷、流氷との悪戦苦闘によりまもられてきた
 昭和2年砕氷貨物船亜庭丸(3,593t)が就航するに及び、その往還は飛躍的に繁栄の一途をたどってきた
 しかし、終戦直後の昭和20年8月24日18時、22年にわたる歴史的使命を終え、その幕を閉じたのである
 今ここに星霜20有余年、稚内桟橋がその面目を一新するときにあたり、有志相図り稚泊航路の輝かしい業績と、幾多先人の苦労を銘記してこの碑を建立し、永久に記念するものである


 昭和45年11月吉日」


稚内副港市場内で昼食。食後、土産物の店を見る。



樺太ノスタルジーといして、 「樺太庁豊原中学校」の教室を再現しているという。稚内とゆかりの深い樺太の情報も多数展示しているという。ここにはいかなかった。北海道には樺太を懐かしむ、雰囲気がある。



昼食後、ノシャップ岬に行く

「ノサップ岬」ではない。

ここでは、風雨がひどく利尻を望むことは出来なかった。
印象的なのは次のもであった。
昭和天皇行幸啓記念碑

九人の乙女の碑


碑文は次の通り。

「戦いは終わった。それから5日、昭和20年8月20日ソ連軍が樺太真岡上陸を開始しようとした。その時突如、日本軍との間に戦いが始まった。戦火と化した真岡の町、その中で交換台に向かった九人の乙女等は、死を以って己の職場を守った。
 窓越しに見る砲弾のさく裂、刻々迫る身の危険、いまはこれまでと死の交換台に向かい『みなさん、これが最後です。さようなら、さようなら……』の言葉を残して静かに青酸カリをのみ、夢多き若き尊き花の命を絶ち職に殉じた。戦争は再びくりかえすまじ。平和の祈りをこめて尊き九人の霊を慰む」


更に、
戦争による痛ましい記念碑。


樺太島民慰霊碑 氷雪の門


碑文は次の通り。引用する。


「碑文

人々はこの地から樺太に渡り、樺太からここへ帰った
戦後はその門もかたく鎖された
それから18年、望郷の念止みがたく樺太で亡くなった多くの同胞の霊を慰めるべく、肉眼で樺太の見えるゆかりの地の丘に、木原豊次郎氏、笹井安一氏の熱意と、全国樺太連盟の賛同、並びに全国からの心あたたまる協力によって、ここに記念碑を造る
氷と雪のなかで、きびしく生き抜いた人々を象徴する女人像、望郷の門、霊石を三位一体とする彫刻家本郷新先生の力作がここに出来上がった
この記念碑を氷雪の門と命名した。」



南極で活躍した樺太犬の功績をたたえた、樺太犬供養塔。



ノシャップ岬見学後は、サロベツ原生花園を見学。

稚内空港から県営名古屋空港へ帰着。


北海道旅行はこれで終わり。




posted by 花井英男 at 09:23| 旅行

2泊3日の宗谷、利尻島,礼文島、稚内の旅 (第2回)

第2回
2日目・8月28日(日)天候は晴れ。
利尻島一周観光。



利尻島を周ると、利尻富士が、色んなところから見え、すばらし眺めだった。

丸い島を一周する。
寝熊とか、人面岩とかを見る。コンブ漁の漁村。
土産店は漁師が経営する。


「道路を渡るときはよくよく、気を付けてください。
30分に1回位、車が走りますから!」と、
“親切な”ガイドが心配してくれた。


昼前に、利尻島から、1時間以内で、礼文島にフェリーで渡る。
昼食を港の食堂でとる。海鮮どんぶりを選んだ、家内はうんざり!食べられない。


ハマナスなど貴重な植物には手を出さないようにとガイドから注意。
島内のお花畑の時期は過ぎている。もう枯れかけている。
高山植物があちらこちらで咲いている。



島には、熊、イノシシなどは一切いないという。

面白い形をした、桃岩には希望者が登る。
これは花さくミニハイキング。
80歳の婦人が山登りに挑戦した。


私は北のカナリア見学へ。
登らない人は、映画「北のカナリア」のロケ地の見学。
この映画は、最近名古屋で話題になっているという。
吉永小百合さん等が出ているという。

風が強くなり、映画で使われた、小さな小学校の中を見学。
有名人が訪れ、サインとか、一筆書いたものが置かれている。

ちょうど、小豆島の「24の瞳」の映画村の縮小版。

添乗員はベテラン。ガイドもベテラン。気持ちの良い話し方をしてくれる。
礼文島には、道立礼文高校がある!
たった2600余人位の人口の島に高校を作った。
生徒数18人、先生など18人という。
立派だ。
礼文高校の横をバスが走った。

ここで少しアイヌのことを調べた。引用する。


「北海道の都市名である札幌や稚内はもとより、国後・シュムシュといった千島列島の島名や、ポロナイスクなどサハリン南部の地名もアイヌ語だ。


のみならず、地鶏で有名な比内(秋田県)など北東北の各地にもアイヌ語地名はみられ、それは『日本書紀』や『続日本紀』といった古代日本の歴史書にも記録されている。」

北海道に行くと、地名がアイヌ語だという印象だ。
どうなっているんだという疑問が出る。
 

「江戸時代後期には、アイヌの居住範囲は北海道・千島列島・サハリン南部に及んでいた。このうち北海道のアイヌは南に接する日本との関係が深く、それに加え、千島列島中北部のアイヌはロシアとの、サハリン南部のアイヌは中国(清朝)との関係をもち、中継交易のプレイヤーとしての活動がみられた。」
こんな歴史があるんだ!

次の文はアイヌ協会からの引用。



「日本の公教育では、アイヌ民族の認識が教科書記述に端的に表れています。
19世紀当初から20世紀後半まで、日本の中央政権は、アイヌ民族に対し同化政策を押しつけました。それでも明治期から第二次世界大戦敗戦前まで使用された国定教科書にはアイヌを「土人」と表し、基本的にはアイヌは先住民族との認識 の下で公教育を進めてきました。


戦後は、一転して国籍を持つ者「国民」としてだけで把握し、その民族的属性やそれら集団に対する配慮を欠くこととなりました。


アイヌ民族については、戦後2〜30年、行政サイドでは無施策のまま過ぎ、追って生活格差是正の一環としての施策が現在まで続いています。


わずか20年程前まで、ほとんどの日本国民がアイヌ民族は同化されたあるいはその誤ちにも気づかない、「単一民族国家」幻想を蔓延していました。」


同化政策がとられた。
アメリカ原住民と同じ運命をたどった。
地名のみ残り、何か悲しさが残る。


この日は、礼文島泊。


終わり
posted by 花井英男 at 09:13| 旅行

2泊3日の宗谷、利尻島,礼文島、稚内の旅 (第1回)

2泊3日の宗谷、利尻島,礼文島、稚内の旅



8月下旬に北海道旅行に行った。
名古屋空港から、稚内空港へ飛んだ。
FDA(静岡に本社のある、富士ドリームエアライン)の飛行機だった。飛行機の色は、それぞれ、レッド、ピンク、青、緑などの色。

2時間足らずの飛行時間。70名位の参加者。2つのグループ。
高齢者、家族連れが多い。90歳の参加者もあるという。

地元、名古屋、春日井等の県内の人が多いようだ。

正確には記述できないかもしれないが印象に残ることを書き記す。

3回に分けて書きます。

第1回
初日、8月27日(土)天候は晴れ。



宗谷丘陵(北海道遺産)をバスが走る。

宗谷岬牧場


 恵まれた広大な土地を活用、肉用牛の受託育成、繁殖育成をする計画で、昭和59年(1984年)から5カ年で農用地開発が始まった。
草地造成面積 1179ヘクタール(東京ドームの250倍に相当)
・飼養頭数 約2300頭
・出荷頭数 約1000頭(年間)


宗谷岬・日本最北端に来た。


間宮林蔵の立像、宗谷岬音楽碑があり、ヒット曲『宗谷岬』が流れる。



祈りの塔


これは、鶴のくちばしの形をした、印象的な塔である。
(1985年9月1日建立日本大韓航空機事故遺族会)
昭和58年9月1日未明、世界を震撼させた”大韓航空機撃墜事件”が眼前のサハリン西海域で起きた。

 「祈りの塔」は2周忌にあたる昭和60年9月1日に、遭難者の慰霊と世界の恒久平和を願い、遺族会の資金と、稚内市をはじめとする全国からの浄財をもとに、サハリンを臨む宗谷岬の高台に建立されたもの。


日本の最北端に来て、死者をなだめる碑が沢山並んでいる。


観光客は、食べ物店でそれぞれ好みの食べ物を買って食べる。

ここが宗谷岬か!!!

遠くに樺太を望む。


フェリーで2時間足らずで、利尻島に渡り利尻で宿泊。

フェリーから見る利尻富士はきれいだった。

ホテルの部屋には、樺太の地図が大きな額に入れて飾られている。


              
 終わり
posted by 花井英男 at 09:00| 旅行