2020年10月18日

北海道 津別町 シゲチャンランド  

NHK 日曜美術館   2020年10月18日【日】

「Walk on the Wild Side! 〜北海道・謎の美術館 “シゲチャンランド”〜」


日曜美術館で、北海道、網走の津別町のシゲチャンランドを紹介した。
造形作家の大西重成さん(通称シゲチャン)が北海道に私設美術館=シゲチャンランドを開いて20周年だという。

経歴を紹介した。
東京で人気イラストレーターだった。50歳で故郷に帰り牧場跡地に14棟からなる独自のアート空間を作り上げた。作品の素材は「拾いもの」。流木や獣の骨、自動車の部品や空き缶などからポップで呪術的なオブジェを生み出す。

奥さんや、息子さんも登場した。日曜美術間では、紹介は柴田祐規子(NHKアナウンサー)がした。
大西さんは、独自の道を切り開き、過疎の町に活力を与えるアートを作り出している。北海道のムツゴロウの動物王国を思い出した。また一つ名物が増えた。

大西重成さんの作り出す作品は、見る人に元気を与える。私はボーっと見ていて、面白くなり、元気が出てきた。太陽の塔を作った、岡本太郎のように人々を元気にする作品だ。生きていていいんだ、ありのままでいいんだ、という気持ちになってきた。

ネット上に出ていた。「津別町の不思議ワンダーランド「シゲチャンランド」その魅力を探ってきました♪」と出ていた。

ネット上の言葉を紹介する。

「女満別空港から車で約1時間、観光スポット「阿寒湖」へ向かう国道240号線沿いに突然現れる赤い建物、知らない人にとっては「何だろう?」という言葉がまず頭に浮かびそうな場所です。」


相当な経歴の持ち主だ。そんなことを微塵も出さない。
とにかくその作品を見せてくれる。その作品から、元気がもらえる。それを私は伝えたい。

「2001年6月に牧場跡地に私設美術館&公園である「シゲチャンランド」をオープン。

牧場跡地に残された住宅地や倉庫、牛舎など7棟を改築補修し、オブジェを展示した摩訶不思議な空間は長い年月をかけて今では14棟になった。」という。

作品の紹介文を載せます。

「身の回りにあるものを使って作り上げてく」という大西さんのスタイルによって、本当なら不用品として捨てられてしまうガラクタ達が何だか憎めないオブジェに変身。」

「流木や倒木を利用したオブジェのなかには、大西さんによって命を吹き込まれた怪しげな謎の生物?に姿を変え、ユーモア溢れるセンスで訪れる人を魅了します。」

「大西さんのデザインには見ているとカラフルな色使いにも優しいほっこり感があって、疲れた気持ちも元気になる、そんなパワーが感じられます。」

「大自然に囲まれた「シゲチャンランド」は、ワクワクする作品を見ながら自然を満喫できるお散歩コースのような雰囲気で、新緑や紅葉の季節を楽しむこともできる場所。」

大西重成さん有難う!!!







posted by 花井英男 at 12:45| 文学・芸術

2020年10月04日

堀尾一郎 絵の旅・祈りの旅 展

堀尾一郎 
絵の旅・祈りの旅 展
Ichiro Horio Works Archive 1989-2020

瀬戸市制91周年記念 瀬戸市美術館 特別展

2020.10.3(土)―11.29(日)
主催 瀬戸市美術館  公益財団法人瀬戸市文化振興財団


堀尾先生から招待状をいただき、久しぶりに瀬戸へ出かけた。瀬戸電には久しぶりに乗った。
尾張瀬戸駅から歩いて15分以上かかった。瀬戸の風景を楽しみながら歩いた。

今回の展覧会では、珍しく、先生は、一つ一つの作品に解説、説明、作成意図などを簡単に付けた。聖書の世界の出来事と、現代の出来事を結び付けている。

美術館から昼食を取ろうと出たところで、美術館の玄関で、堀尾一郎先生に出会った。「会えてよかった」、「おめでとうございます」、「作品の解説、説明が良かった」と伝え、手土産をお渡しした。

今回、堀尾先生は、「画集 堀尾一郎 絵の旅・祈りの旅
Ichiro Horio Works Archive 1989-2020」(3000円)を出版された。

美術館の玄関には、北川民次の陶像が出迎えてくれる。「バッタ北川民次」の像。北川民次は、陶工を愛した。

堀尾一郎先生は、北川民次と親交を結んでいた。

瑞穂CBT相談室のホームページ(「相談の申し込み」と「料金」の頁)には、

堀尾一郎先生の個展で出ていた作品を掲載しております。


帰りは、ゆっくりと瀬戸駅周辺の街を歩き、陶磁器店を訪ね、食器を買って帰った。



同時開催で、次の展覧会も開かれている。

瀬戸信用金庫アートギャラリー企画展

堀尾一郎硝子絵展

ICHIRO HORIO EXHIBITION
ー世界の旅ー

令和2年10月3日(土)〜令和2年11月8日(日)
瀬戸信用金庫アートギャラリー



こんもりとした山の上の森の中に、美術館はあった。
1階で、
「初期瀬戸染付の謎」と 「加藤民吉とその時代」
の簡潔な記述を見た。民吉の生涯について、少し述べます。


1772年に、生まれた、民吉は、窯元の次男に生まれたので、「窯を継ぐのは長子のみ」などの規制によって生産量を制限していたため、家業を継ぐことは許されなかった。民吉は、九州で先進的な磁器の技術をまなぶきっかけをつかんだ。瀬戸に製磁法を持ち帰るためには、相当な苦労があった。

九州での民吉の修行について次に引用します。
「享和4(1804)年民吉は、天草東向寺(曹洞宗)の天中和尚(愛知郡菱野村出身)を頼って、一人九州へ旅立った。九州に着いてからは、苦労と努力を重ねたと伝えられ、やがて丸窯や柞いす灰など、肥前の技法を習得した民吉は、文化4(1807)年瀬戸に戻り、有田に遅れること約200年、民吉の帰郷によって伝えられた肥前磁器の製造法のおかげで、瀬戸の染付磁器は急速に進歩し、発展した。こうした業績をたたえ、民吉は瀬戸の磁祖として窯神神社に祀られ、9月の第2土・日曜日には「せともの祭り」が開催されている。」

加藤民吉の生涯について、ネット上に出ている、民吉の九州への旅立ちのきっかけは、「享和元年(1801年)に父・吉左衛門らとともに熱田前新田(現在の名古屋市港区)の入植者として名古屋に移り住んだ時であった。やがて、民吉らは新田開発を指揮していた熱田奉行・津金胤臣と出会いがあった。

愛知県出身のお寺の坊さん(九州在住)のお陰で九州での修行ができた。九州では、肥前、肥後のお寺の坊さんたちの紹介状をもらい、各地を訪ねていた。民吉が肥前、肥後で技術を習得するには、相当な苦労があった。肥前、肥後から技術が藩外に出ることを警戒していたからだ。

例えば、九州で、「庄屋から「他国の者は置けない」と言い渡された」とか、「民吉は有田焼の上絵の技法を知ろうと考え、天草出身の振りをして有田の上絵屋を訪れたが、鍋島藩の情報統制の厳しさから徒労に終わる。」とか、

「仁左衛門の息子(嫡子の新左衛門?)が伊勢参りのため佐々を留守にしていた時期に窯入れが行なわれたことで釉薬の調合なども知ることが出来た」このことは、すきを狙って技術を盗んだということか。

私は、平戸へ修学旅行に生徒と訪れたとき、平戸の陶磁器屋の主人から、加藤民吉をこき下ろす、ショックな話を聞いた。その話は、現代の週刊誌的な内容であった。

民吉の「現地妻説」について、ネット上に出ている。省略します。

民吉は、今でいう、「産業スパイ」であった、という。確かに、今でいう、企業秘密になるだろう。それを守るのは当然かもしれない。肥前平戸(長崎県)、肥後(熊本県)天草の製磁法を学んで帰り、丸窯(まるがま)を築いて染付磁器の製法を完成。瀬戸に伝えた功績は大きい。瀬戸は民吉の陰で陶磁器の生産が栄えた。瀬戸にとっては大事な人物である。

肥前、肥後で修行中に地元の娘と結婚した。瀬戸へ帰るときに、その妻を連れて帰らなかった。陶磁器の店の主人は、それを非難した。「そのことが許されない。」と陶磁器の店の主人の話であった。

朝日日本歴史人物事典の解説によれば次のような記述がなされている。

「文化4年帰国し,染付焼御用達となった。民吉の持ち帰った技術によって瀬戸の磁器焼成技術は向上し,陶器窯の本業焼に対し,新製と呼ばれる磁器焼成が盛んになり,東日本の一大磁器産地として飛躍的な発展をすることになった。」







posted by 花井英男 at 19:19| 文学・芸術

2020年07月09日

ロバート・フロストの詩を読む


英詩を読む
Poems of Robert Frost

講師:名古屋大学名誉教授  岩崎宗治
テキスト:『対訳フロスト詩集』川本 晧嗣偏(岩波文庫)

名古屋・栄 中日文化センター

2020年7月9日木曜日


 待ちに待った、「英詩を読む」が始まった。2月下旬から、閉講になって、7月9日、講義再開だ。皆さん待ちに待っていただろう。教室に入って、目を合わせて挨拶した。教室の中は、感染防止のために座る席が指定されていた。

 今日は、岩崎先生のハンドアウトは、ブリューゲルの「死の勝利」1562年(プラド美術館蔵)だ。
先生は、マイクを付けてないので、聞こえない。隣の教室の声がうるさいので、教室のドアを閉めに行ったところ、ドアは明けておかないといけないと女性が合図してくれた。相変わらず隣の教室の笑い声が聞こえてきた。あきらめた。

岩崎先生にマイクを付けてくださいと誰かが頼んだ。ようやく聞こえた。

この絵は、見る限り、気持ちの悪い絵だ。何が描いてあるのかさっぱりわからない。混乱と骸骨の群、世界の終わりを表している。

ウィキペヂアによれば、「14世紀中頃にヨーロッパ全土を席巻したペストの大流行は、人々の死生観に大きな影響を与えた。有効な治療法もなく、現世のいかなる地位・武力・富も意味を成さず、あらゆる階級の人々が為す術もなく死んでいく社会情勢だった」

ペスト、あるいは、黒死病と呼ばれたという。現在、世界は、コロナの件で、脅かされている。正しく恐れるということで、対処しているが、昔は、大変だったんだろうと思う。


きょうのフロストの詩は、[8]Home Burial  自宅埋葬


ロバート・フロスト(1874年3月26日 - 1963年1月29日)が、生きていたころの、アメリカでの家庭葬についての父親と、子供を亡くした母親の対話詩だ。

読んでいると、夫婦の限りなく続く不和状態の会話にうんざりしてしまう。こんなのが詩になるのかと思った。フロスト詩集にこんなのが入るのかという疑問さえ起こる。

傑作と言える作品ではない。作品を半分くらい読んだところから、参加者がコメントやら、読んだ本の紹介を始めた。

 参加者の女性が発言して、一気に作品の理解が深まり、面白くなった。息子さんを病気で亡くした女性は、子どもを亡くした悲嘆は、男性にはわからないくらい大きいと述べた。近くに座っていた男性がうなずいた。私もうなずいた。

 この詩作品はフロンティア時代の出来事で、父親が自宅近くに子どもを埋葬するために、せっせと穴を掘り頑張った場面が描かれている。一方母親は旦那の苦労も理解せず、旦那が事務的に事を運ぶ姿勢に怒りさえ持つ。夫婦の溝は収まりそうにない。最後までこの調子だ。

 多分、子どもを亡くしたことで、夫婦で喪に服すという、つまり夫婦で子どものことを語り合う、モーニングワークが十分に持つ余裕がなかったのだろうと思う。母親はそのことが不服なのかもしれない。父親にも母親にも、そのようなことを考える余裕がなかったのかもしれない。

 モーニング・ワークとは、「喪の作業」という。愛着や依存の対象を失うことを対象喪失といい、それによって生じる心的過程を喪(悲哀)という。

 フロイトは、喪の作業を経ることによって失った対象から離脱し、新しい対象を求めることが可能になるとした。

 現代でも、子どもを交通事故で亡くし、母親が仕事を続けられなくなって、休職したということがあります。それくらい、母親にとって大きな出来事である。昔は、そんなことを十分に考えることなどできなかったかもしれない。


 作品解釈の中に、「悲しみと理性の対立」というところに落ちつた。感情の母親と理性の父親の対立。埋まりそうにない対立がある。

 この詩は、フロスト自身が自分の子どもを亡くした体験に基づいていた。フロストは、長男をコレラで亡くした。それが後々まで尾を引いたといわれている。

フロストは、アメリカの国民的詩人として親しまれている。ケネディ大統領の就任式に招かれて、自作の詩「惜しみない贈り物」The Gift Outorightを朗読した。アイゼンハワー大統領、オバマ大統領とも親しい。

ロバート・フロストの庶民性、取るに足らない人々というと失礼になるが、そのような人々を材料にして詩を書いている。子どもを亡くした夫婦の悲しみ、苦しみ、苦悩、トラブルを詩の題材にしている。

これは、(7)”The Death of the Hired Man ” (7)「雇われ農夫の死」の題材と共通する、と思う。社会の最底辺の人を題材にしている。フロンティア時代の雇われ農夫は、多分、社会の最底辺の人たちであっただろうと推測される。

社会の最底辺の人たちの出来事に温かい目を向けているのだ。












posted by 花井英男 at 20:03| 文学・芸術