「ドイツへの傾斜」 司馬遼太郎
司馬遼太郎 「この国のかたち」 文芸春秋
たまたま読んでいた、司馬遼太郎の「この国のかたち」(文芸春秋)の中に、「ドイツへの傾斜」を読んだ。なかなか面白い文章だ。そもそも、なぜ、日本が、日露戦争、日清戦争、太平洋戦争に突き進んだのか?ということにもつながる。
明治の大日本帝国憲法がどのようにできたのかにもさかのぼる。司馬遼太郎は、分かりやい言葉で、誰にでもわかる言葉で、明治時代の蘭学者たちが、ドイツ人のものの考え方、制度を取り入れる方向に向かっていった経緯を述べる。
司馬は次のように述べる。「日本近代史に、“ドイツへの傾斜”がある。アメリカ人で、日本近代史を専門とする人が、『どうしてそんなことになったのか』と、否定的な表情で私に聞いたことがある。」
「江戸期、日本にとってオランダがヨーロッパ文明そのものだった。医学も理化学もオランダ語によって知ったし、オランダ語によって知ったし、またペリー来航以後、幕府が設けた長崎に設けた海軍教育機関も、オランダ式だった」引用文
「が、維新の翌年の明治二年(一八六九年)という早い時期に、日本政府はオランダ医学を捨ててしまう。」引用文
「そのようにすべく政府の要路に対して物狂いしたように説いてまわったのは、相良友安(佐賀藩)と岩佐純(越前福井藩)という二人の蘭学者だった。」引用文
「英語圏に見習って国づくりをすべきだった。という言い方も十分以上に成立する。・・・中略・・・ただ、アメリカは、その後南北戦争(1861〜65年)がおこって、幕末における対日外交が手薄になった。」引用文
イギリスも、フランスも、幕府に対して、抜きんでて能動的な対日外交を展開した経緯があった。
「明治維新を起こして4年目(1871年)に、プロイセン軍がフランス軍を破ったことが大きい。在欧中の日本の武官は、目の前で鼎の軽重を見てしまった。かれらはドイツ参謀本部の作戦能力の卓越性と舞台の運動の的確さを見、仏独の対比もした。」引用文。
「憲法についても、そうだった。」
「憲法をつくろうという機運は明治十年代からあり、さまざまな検討が行われたが、結局はドイツの後進性への親近感が勝った。」引用文
面白いのは、次の文章だ、「フランス憲法については、“過激”すぎるという印象だったし、後略」
「ドイツについては、ひいきというよりも、安堵感だったろう。ヨーロッパにもあんな田舎くさいー市民精神の未熟なー国があったのか、とおどろき、いわばわが身にひきよせて共感した。」引用文
中略
「陸軍が統帥権を根拠にして日本国を壟断(ろうだん)してはじめるのは昭和十年前後だが、外交面でまずやったのは、外務省や海軍の反対を押し切って、ヒトラー・ドイツと手を組むことだった。」
中略
「日本の近代化時代のドイツ偏重や、陸軍におけるドイツ傾斜というのは、一種の国家病のひとつだったとしかおもえない。」引用文