2018年03月26日

故キング牧師の孫が「私には夢がある」とスピーチ

故キング牧師の孫が「私には夢がある」とスピーチ


アメリカでは、2018年3月24日、銃規制強化を求める「命のための行進」が各地で行われた。
アメリカばかりでなく、世界中で銃規制のデモが行われた。

日本では、最近、名古屋で、アメリカで、留学中に、銃の犠牲になった、服部君の両親が、ささやかな会合を開いた。旭丘高校の服部君が、ハローウィーンの日に、間違えて訪問した家で銃殺された。

アメリカの集会では、小さな子どもがスピーチをした。
さらに、故キング牧師のお孫さんが、スピーチに立った。

「私のおじいちゃんには夢がありました。私にも夢があります」という銃をなくすための趣旨のスピーチをした。


アメリカは、憲法で銃所持が記述してあるため、銃社会になっている。
文明社会であるアメリカは、銃の所持なんて必要がない。

私は、英語の教師をしていたころ、高校に派遣されてくる、アメリカ人の青年教師に、アメリカは憲法に、銃所持の条文を持っていること自体がおかしい、と話したことがある。その青年は不機嫌になってしまった。


アメリカでは、にっちもさっちもいかない状況になっている。銃産業が、自分の利益追求のために、銃規制を阻んでいる。トランプ大統領は、銃産業から献金をもらっているため、本格的に銃規制強化に取り組まない状況だ。


やはり与論で銃規制強化を進めて行かなければいけない。銃規制の世論が高まることを期待します。


posted by 花井英男 at 17:37| 戦争・平和

2018年01月08日

祝 ご成人  みずほ九条の会

成人式会場、瑞穂小学校のまえで、赤い のしぶくろのビラ配りを
地域の人たちがした。チラシ配りに参加した方たちに、敬意を表します。

デザインのすばらしい、お祝いムードのチラシだ。




全部で4ページからなる。

表紙は(1ページ目)、


祝 ご成人
みずほ九条の会
2018.1.8



表紙をめくると(2,3ページ)、

憲法九条の大切さについて一緒に考えませんか


未来を担うあなたも


全部で5つのコラムがある。



一つ目のコラムは、




憲法九条は、あの悲惨な戦争を二度と繰り返さないために
日本が戦争をしないと約束した条項です。


私たち日本人にとっても
世界中の人々にとっても
価値のある大切な憲法です。



2つ目のコラムは、

日本は憲法九条があることにより、
今まで、武力ではなく話し合いで
いろいろ問題を解決してきました。


しかし世界では、様々なところで
争いやテロが起き命が失われています



3つ目のコラムは、

相手が武力をもっているから、
こちらも武力を持つという考えもあります。


でも、よく考えてみると
争いの原因はなんでしょうか?


相手の生活や命を、大切な人を
奪うことでしか
解決できないことなんでしょうか?



四つ目のコラムには


私たちは言葉を持っています。
私たちは話し合うことができます。


憎しみや悲しみを生む戦争ではなく
話し合いで解決する道を
選びたいと思いませんか?






最後のコラムは、



日本国憲法
第二章 戦争の放棄
(戦争の放棄と戦力及び交戦権の否認)



第9条 @日本国民は、正義と
秩序を基調とする国際平和を誠実
に希求し、国権の発動たる戦争と、



武力による威嚇又は武力の行使
は、国際紛争を解決する手段と
しては、永久に放棄する。



A前項の目的を達成するため、陸海
空軍その他の戦力は、これを保持
しない。国の交戦権は、これを認
めない。




私たちは憲法九条を守る活動をしています。

みずほ九条の会


めくると最後のページ(4ページ目)は、


MESSAGE
みずほ九条の会

ご成人おめでとうございます。



私たちは「二度と戦争はしない」「「武器は持たない」と誓った

日本国憲法九条をまもりひろめようと、

ここ瑞穂区で活動している「みずほ九条の会」です。



日本国憲法は、

第二次世界大戦の戦禍を教訓として尊重され、「基本的人権」や「平和に

生きる権利」を保障し、国家権力を縛るものです。





憲法九条は「戦争放棄」と「戦力の不保持」「交戦権」を

否認する世界にも  まれな平和主義をうたったものです。




自衛隊を憲法九条に明記すれば「戦争をしない」「軍備は持たない」
と決めた九条は、全く違ったものになります。




国の命令で見知らぬ他国の人を殺したり、

殺されたりする戦争を二度としないために、

私たちは憲法九条を手を加えてはならないと考えています。

大人の仲間入りをされたみなさん、憲法と真剣に向き合ってください。

憲法前文を読んでみてください。

平和な世界を築くために。



以上が、チラシの内容です。

すばらしい、きれいな日本語で書かれた、文章だと思いました。

私の所感を述べます。

安倍首相は、憲法は、「占領下で作られたものだ」と言います。「戦後70年もたったからもう古い」と言います。「時代に合った、新しい憲法を作りたい」と言います。本音は、九条を骨抜きにして、国民の権利を骨抜きにした内容にしたいのでしょう。


これは、自民党、財界の本音でしょう。アメリカの言いなりになる政治を目指す人たちの言い分です。


現在の憲法は、実際は、日本の良心的な学者たちが、苦労して作り上げたものだと実証されています。

終戦後に、現憲法の作成過程で、政治家たちが何度も作った憲法草案は、明治憲法の内容のものばかりだったということが事実です。

その憲法草案に対して、占領軍の担当者は拒否をした、もっとましな草案はないかと迫ったという事実があった。

純日本製の、日本人による、日本人のための、日本人の法律学者たちが、戦時中に、政府から弾圧を受け、冷や飯を食っていた、学者たちに作成された憲法草案が、現在の日本国憲法です。

日本・自家製の憲法であった。誇るべきことです。

当時の政府関係者が作成した憲法草案は、占領軍の担当者たちが、とても認められない内容であったことが明らかにされています。

そういう検閲を占領軍から受けたのは事実です。だからと言って、占領軍が作った憲法ではないのです。

悲しいかな、軍国主義の考え方の政治家たちには、主権在民、基本的人権、平和主義などの概念を持つ人はいなかった。


他国の人から見て、世界標準の、世界基準の内容の憲法草案を作成する人は、当時の政治家たちの中にはいなかった。

自民党は、明治欽定憲法がなくなったのが悔しくてならないのだと思います。日清戦争、日露戦争、太平洋戦争の侵略戦争に、国民を駆り立てた、明治憲法の中身を再現したくてしょうがないのだと思います。

明治維新をなしとげた思想家、吉田松陰、政治家たち、西郷隆盛、伊藤博文などは、アジア侵略、韓国併合などの野心を持っていた連中だ。明治維新の初めから、侵略戦争の芽があった。根深い。


自民党は、戦争犯罪を犯した政治家たちによって結党された政党です。第2次世界大戦の戦争犯罪を正しく反省できない政党です。

第2次大戦の戦争犯罪に無反省だと言うことに関していえば、県立高校退職者の会が韓国、台湾に戦争遺跡を訪ねる旅行をした時のエピソードについてお話します。

韓国のお婆さんに、日本の戦争犯罪のついて謝罪の言葉を述べると、「あなたたちがやったことでは」ないと言ってくれた。

しかし、自民政府のだらしなさには、戦争犯罪の跡の残る、韓国に行くと、肩身の狭い気持ちになる。

韓国、中国の人たちは、心の奥深いところで、根深い不信感を持つ。日本政府が、戦争犯罪に無反省だから。


いまだに、韓国政府、中国政府は、毎年、8月頃になると、国会議員たちが「第2次世界戦争を美化する靖国神社」に参拝することに対して、抗議をします。自民党などは、無反省です。恥ずかしい自民党政府です。戦争犯罪について、いまだに解決していないのが実情だ。

ドイツ政府は、第2次世界大戦の戦争犯罪をしっかりとした国です。そのことに関して、周りの国々から尊敬されています。

自民党などの国会議員などが、戦争犯罪を美化する靖国神社に参拝するとは、無反省も甚だしいです。恥ずかしい限りだ。

憲法9条は、後世に残す、最大の贈り物です。世界に誇る宝です。

平和な日本を作るため、また、守るため、平和な世界を作るために、九条を守りましょう!!!

平和憲法は、後世への、最大の贈り物。

憲法9条は、後世への最大の贈り物。














posted by 花井英男 at 17:57| 戦争・平和

2018年01月05日

母・いわさきちひろの絵を語る松本猛

ラジオ深夜便
2018年1月5日
【明日へのことば】

「母・ちひろ アトリエの後ろ姿」
美術・絵本評論家 松本猛




いわさきちひろは、常に「子どもの幸せと平和」をテーマとした。


いわさき ちひろ(本名:松本 知弘(まつもと ちひろ、旧姓岩崎)、1918年12月15日 - 1974年8月8日)

は、子供の水彩画に代表される日本の画家、絵本作家。

夫は、弁護士、日本共産党元国会議員松本善明。


いわさきちひろの息子、松本猛がちひろの絵本について語った。

松本猛は、「母ちひろのむくもり」(講談社文庫)を書いている。




平和を願い、子どもを愛し、一人の芸術家として生き抜いたいわさきちひろを、母親として、画家として、ひとりの人間として見つめる。


「思い出のなかの母」「絵のなかの母」「アトリエの母」「ちひろが愛した人たち」「母ちひろと信州」などのテーマでちひろについて明かし、その絵の魅力についても触れる。


松本は、東京芸術大学の卒論で、絵本について取り上げようとした。


担当教官から、絵本は芸術として価値のないものなので、指導しないと言われた。指導教授がいないとも言われた。
それでも、絵本について卒論を書いた。


松本は、今年は、ちひろ生後100年であり、ちひろが芸術家としての価値が確立したと考える。


ちひろの絵本がどのように成立したかを述べた。まだ、没後50年経っていないが、

没後50年が画家としての価値が確立すると考えるとも述べた。


松本は、ちひろの生い立ちを述べた。何が、母ちひろの絵を育んだかを調べた。

東京府立第六高等女学校時代(現在の東京都立三田高等学校)について述べた。同校は、生徒の個性を重んじ、試験もなく、成績表も希望者に配布されるのみだったという。ここでもちひろは絵がうまいと評判だった。


女学校二年(14歳)の三学期、母・文江はちひろの絵の才能をみとめ、岡田三郎助の門をたたいた。ちひろはそこでデッサンや油絵を学び、朱葉会の展覧会で入賞を果たした。

ちひろは女学校を卒業したのち、岡田の教えていた美術学校に進むことを望んだが、両親の反対にあって第六高女補習科に進んだ。


ちひろの絵が生まれる背景には、1回目のいやいやながら望まぬ結婚(20才)(夫の自殺)と、その後の、終戦後に至るまでの満州開拓団の体験があった。


1944年(25歳)には女子開拓団に同行して再び満州・勃利に渡るが、戦況悪化のため同年帰国した。


翌年には5月25日の空襲で東京中野の家を焼かれ、母の実家である長野県松本市に疎開し、ここで終戦を迎えた。

ちひろはこの時初めて戦争の実態を知り、自分の無知を痛感する。終戦の翌日から約一か月間の間にここで書かれた日記『草穂』が現在も残っている。


「国破れて山河有り」(杜甫)と記されたスケッチから始まるこの日記には、こうした戦争に対する苦悩に加え、


数々のスケッチや自画像、武者小路実篤の小説『幸福者』からの抜粋や、


「いまは熱病のよう」とまで書かれた宮沢賢治への思いなどが綴られている。


善明との出会いと画家活動



1946年(27歳)1月、宮沢賢治のヒューマニズム思想に強い共感を抱いていたちひろは、戦前、戦中期から一貫して戦争反対を貫いてきた日本共産党の演説に深く感銘し、勉強会に参加したのち入党した。

途中の経過を省略。


ちひろ美術館は、ちひろの作品の収集展示という個人美術館の枠を超え、「絵本の美術の一ジャンルとして正当に評価し、


1997年4月、長野県安曇野に、広い公園を併設した安曇野ちひろ美術館が開館した。

我が家では、毎年、ちひろの絵のついたカレンダーを使っている。ちひろの生涯を時々思い出したい。


posted by 花井英男 at 14:19| 戦争・平和