2025年12月13日

中部ブロック学習交流会ツアーin富山

2025年全退教 中部ブロック学習交流会ツアーin 富山
平和への祈りの旅−名もなき人達の慰霊碑をたどる


11月6日(木)〜7日(金)、長年の参加希望だった、全退教の旅行に参加した。最初に、幹事役の富山高退教のおもてなしに心から感謝申し上げます。

 宿は氷見市の海岸沿いのなだうら温泉旅館、「イソップ」。バスで隣に座った、富山高退教の方は、国語の先生だった方で、2日間、親しく話ができた。

 初日、最初に、シベリア抑留犠牲者慰霊碑を訪ねた.

2005年8月に、高岡市の信光寺の墓地に、全国強制抑留者協会が建立した「ソ連強制抑留者慰霊碑」(刻名)を訪問した。シベリア抑留の背景は、ソ連・スターリン(8月23日極秘指令)は労働力不足を補うために、日本軍捕虜をシベリアに抑留し、強制労働を行わせた。

 抑留者は60数万人(富山県約3100人)、飢餓と酷寒の重労働の中、約6万数千人(富山県600人)が犠牲となった。初めて知る、詳細な実証的歴史的記述に改めて感銘を受けた。


 資料には、映画「ラーゲリ(註・収容所)より愛をこめて」のカラー写真、「モンゴル抑留 死を覚悟 命ある限り体験を伝える」全国協会長107才山田さん(写真)(南砺)の北日本新聞の記事2025.6.14の紹介。後世に伝えようとする意志を感じる。

 国宝 雲龍山勝興寺(浄土真宗本願寺派)の見学
広大なお寺の建物について、ガイドさんの熱弁の説明を頂いた。富山には、国宝の寺はもう一つ、前田利長の菩提寺として建立された、瑞龍寺がある。

 勝興寺起源は蓮如が創建、16世紀末までは、一向一揆を主導。以下略。1998年から23年間大修理が行われ、昔の壮麗な姿がよみがえったと記述されている。
   
 大伴家持の万葉歌碑に感銘   越中国府の推定所在地
お寺から、見学先の高岡市伏木気象資料館・旧伏木測候所(国登録有形文化財)に移動の途中に、道路上に大伴家持の銅像を見上げた。

 資料館の中庭に、越中国主守館推定地 越中国府関連遺跡の記述の看板と、大伴家持の歌碑があった。何よりもこの掲示板に出会えて、私は、うれしかった。

「朝床に 聞けば遥けし 射水川  朝漕ぎしつつ 唱ふ船人 万葉集巻十九・四一五〇」と紹介文。(あさどこに きけばはるけし いみずがわ あさこぎしつつ うたふふなびと)

 さらにつぎの解説がうれしかった。「天平勝宝二年(七五〇)三月二日越中国大伴家持が館舎の朝の寝床ではるか射水川(小矢部川)を漕ぎ歌う船人の声を聴いて読んだ歌である。射水川は当時、この大地のかたわらを流れていた。」

 初日の夕食会は、参加者全員がスピーチをする交流会が楽しかった。長野3名、新潟4名、静岡4名、愛知5名、富山7名。最後に富山高退教の幹事の方の、「剣岳に賦す」(これは立山連峰のことだろうか?)の詩吟と、こきりき節の歌唱披露を頂いた。

 昔、私は富山駅付近から見た、立山連峰の素晴らしい景色の記憶が残っている。今回の訪問中は見ることができなかった。代わりに、絵はがきを購入した。

 2日目最初に、ひみ番屋街(物販・鮮魚の店で買い物)

 富山大空襲慰霊地蔵尊を訪問   漂流死者を慰霊―お地蔵さん建立
昭和20年の空襲後に赤ちゃんを抱いた母親、寝間着姿の小学生など多数の犠牲者の遺体が毎朝のように海岸に打ち上げられた。平和の尊さを忘れてはいけないという願いを込めて、1975年に募金により、建立。

 高岡大仏の見学ー柔和なお顔の大仏さん。26年の歳月をかけて完成。
 伏木港にある日中友好之碑の見学。日本と中国は二千年にわたる友好の歴史がある。戦時中伏木港に強制連行され港湾労働に従事した中国人の慰霊碑。

友好の碑は、強制連行人数、死亡人数、歴史認識を疑わせる記述の問題を残す、という資料の紹介。

 「平和と人権 とやまガイド」38頁の分かりやすいパンフレット(5百円)。このガイドは、中学、高校生をはじめ広く県民を対象に平和・人権の視点から近現代の旧跡・石碑などを紹介したもの。歴史教育者協議会などの編集。この本に感銘を受けた。






posted by 花井英男 at 09:35| 戦争・平和

2025年10月24日

愛高教退職者の会 10月 月例会

愛高教退職者の会 10月 月例会

後世に語り継ぐために

愛知・名古屋戦争に関する資料館

企画展示 子どもたちの「戦闘配置」  見学会

2025年10月17日(金)

 13:00  「愛知・名古屋 戦争に関する資料館」(愛知県庁大津橋分室)前 集合


今年は、戦後80年。名古屋をはじめ愛知県内の各所で戦争の被害があった。その痕跡を遺品・写真やビデオで・・・・。そんな実態を正しく若い人や子供らに語り継ぐためにもぜひ多くの参加を・・・・。今回は開館して10年になる「愛知・名古屋 戦争に関する資料館」を見学すし、学芸員の方の説明を受けます。そして旧交を暖め、有意義なひとときを過ごしましょう・・・・。


行動予定

13:00 愛知・名古屋 戦争に関する資料館(旧県庁分室)前集合

13:10〜15:00資料館見学・学芸員案内予定

15:10〜 自由行動(推薦コースは当日) 護国神社内「平和祈念館」 展示内容比較?

        近辺の戦争のつめあと散策


久しぶりに、退職者の会の例会に参加した。20余名が参加した。懐かしい顔をみてうれしかった。新しく挨拶を交わした方もいた。

地下鉄の名城駅は、電車を降りたあと、地上へ出るために、エスカレーターは全くない。エレべーターが、少なくて不便だ。なんとかエレベーターのある場所を駅員に聞いて地上に出た。大津橋からずいぶん北の方角の国立病院のかどっこに出た。名古屋市役所の建物の紹介文を読んで、歴史的建造物を改めて、眺めた。次に愛知県庁の歴史的建造物の紹介文を読んで、建物を眺めた。

のんびりと大津橋の旧県庁分室に歩いた。愛知・名古屋 戦争に関する資料館は、2015年に開館したとのこと。全く知らなかった。3階の会議室で学芸員から、ビデオによる説明を受けた。長い説明だったので、細かく説明できない。愛知県内で、米軍の攻撃目標となった地域の説明、なぜそこが攻撃されたかの説明があった。詳しくは、米軍がわの資料、アメリカにある資料に基づいて説明を受けた。

学芸員の学問的な立場からの、実証的な説明に納得した。古い建物なので、ここの建物はエレベーターがない。老人にとって、3階に上がったり、1階に降りるのはつらい。

1階の展示場に降りて、展示物の説明を受けた。若い学芸員の熱弁である。展示内容は、県民の戦争体験だ。とくに、学童らの疎開体験、どこへ疎開したか、地域の説明、学童らの疎開生活の毎日の日課の内容、親の慰問、食事に内容、おやつ、しらみとり、おねしょなど、かわいそうな実態が紹介された。

私の姉と兄は、疎開していた。姉は、津島の親戚のうちへ、兄はどこか分からない。母と一緒に電車か真っ暗な貨車に乗って、兄のところへ行った覚えがある。どこだったのだろう?母に聞いておけばよかった。もうなくなっていない。

資料館から、6種類の印刷物を頂いた。下記のとおりです。有難うございました。

1.愛知・名古屋 戦争に関する資料館

2.企画展示  子どもたちの「戦闘配置」

3.平和学習パンフレット 愛知・名古屋 私たちのまちにも戦争があった―平和について考えよう

4.ガイドマップ 愛知・名古屋 戦争のつめあと散歩

5.学童疎開と学徒動員 A4 2枚

6.名古屋・愛知を攻撃した兵隊 A4 3枚






資料館の見学のあと、愛知県護国神社内の桜花会館(おうかかいかん)の中の、「愛知平和記念館」まで、みんなで緑の生い茂る名古屋城の堀川沿い?旧瀬戸電の走っていたお堀沿いを歩いた。緑の木の生い茂るここを歩くのは結構うれしい。緑の生い茂る中を歩くだけでうれしい。

「愛知平和記念館御案内」というパンフレットをもらった。桜花会館は、在職中に、会議でよく使ったところだ。なつかしい。安い代金で借りることができたと思う。なつかしい。展示室は、3階にあり、エレベーターで行くことができた。1階に、喫茶があり、そこで見学後に、旧交を暖めた。

ここは学芸員がいない。学芸員という学問的な立場からの、収集品の実証的な解説が欲しい。
ここで頂いたご案内には、次のような内容の記述がある。
「〇愛知平和記念館とは
愛知平和記念館とは、明治、大正、昭和の3代にわたって行われた幾多の戦役、大戦において我が国の発展を願って戦場に赴かれ(おもむかれ)、その犠牲となった方々の遺品、遺書、その他参考資料を保存展示して、戦争の持つ悲惨さと平和の尊さをあらためて考えていただくために設けられた施設でありますが、その根本には、先人の歩まれた苦難の道をしのびつつ、現在の平和が永遠に続くようにとの願いがこめられております。」

この文章には、日本が旧帝国憲法のもとで、朝鮮、中国、台湾、アジアなどへの侵略戦争をした反省の気持ちがうかがうことができない内容になっていると思います。過去の戦争を美化しかねない内容になっていると思います。国民がいかに苦しい立場に置かれたかも、記述されていないと、思います。









posted by 花井英男 at 11:42| 戦争・平和

2024年06月23日

2024年度 沖縄全戦没者追悼式 平和の詩 全文(「児童•生徒の平和メッセージ」

2024年度 沖縄全戦没者追悼式 平和の詩 全文

(「児童•生徒の平和メッセージ」詩部門高校の部 最優秀賞)



「これから」

沖縄県立宮古高校3年   仲間友佑さま


短い命を知ってか知らずか
蝉が懸命に鳴いている
冬を知らない叫びの中で
僕はまた天を仰いだ

あの日から七十九年の月日が
流れたという
今年十八になった僕の
祖父母も戦後生まれだ
それだけの時が
流れたというのに

あの日
短い命を知るはずもなく
少年少女たちは
誰かが始めた争いで
大きな未来とともに散って逝った

大切な人は突然
誰かが始めた争いで
夏の初めにいなくなった
泣く我が子を殺すしかなかった
一家で死ぬしかなかった
誰かが始めた争いで
常緑の島は色を失くした
誰のための誰の戦争なのだろう
会いたい、帰りたい
話したい、笑いたい
そういくら繰り返そうと
誰かが始めた争いが
そのすべてを奪い去る

心に落ちた
暗い暗い闇はあの戦争の副作用だ
微かな光さえも届かぬような
絶望すらもないような
怒りも嘆きも失くしてしまいそうな
深い深い奥底で
懸命に生きてくれた人々が
今日を創った
今日を繋ぎ留めた
両親の命も
僕の命も
友の命も
大切な君の命も
すべて

心に落ちた
あの戦争の副作用は
人々の口を固く閉ざした
まるで
戦争が悪いことだと
言ってはいけないのだと
口止めするように
思い出したくもないほどの
あの惨劇がそうさせた

僕は再び天を仰いだ
抜けるような青空を
飛行機が横切る
僕にとってあれは
恐れおののくものではない
僕らは雨のように打ちつける
爆弾の怖さも
戦争の「せ」の字も知らない
けれど、常緑の平和を知っている
あの日も
海は青く
同じように太陽が照りつけていた
そういう普遍の中にただ
平和が欠けることの怖さを
僕たちは知っている

人は過ちを繰り返すから
時は無情にも流れていくから
今日まで人々は
恒久の平和を祈り続けた
小さな島で起きた
あまりに大きすぎる悲しみを
手を繋ぐように
受け継いできた

それでも世界はまだ繰り返してる
七十九年の祈りでさえも
まだ足りないというのなら
それでも変わらないというのなら
もっともっとこれからも
僕らが祈りを繋ぎ続けよう
限りない平和のために
僕ら自身のために
紡ぐ平和が
いつか世界のためになる
そう信じて

今年もこの六月二十三日を
平和のために生きている
その素晴らしさを噛みしめながら

(原文のまま、沖縄県平和祈念資料館提供)










posted by 花井英男 at 12:54| 戦争・平和