2019年06月11日

三河一向一揆の舞台 本證寺を訪ねる

愛高教退職者の会  6月 月例会

三河一向一揆の舞台

本證寺を訪ねる

2019年6月11日(火)13:05〜16:00

集合場所:名鉄 西尾線 桜井駅


桜井駅から、あんくるバス(100円)に乗って、野寺本證寺まで行った。
山門で集合した30人以上の参加者は、退職者の会員の廣田純子さん(安城市歴史ガイド)から、自己紹介を聞いた。

パンフレット「安城 歴史の散歩道 三河一行一揆の舞台 本證寺を歩く」 安城市教育委員会発行を頂いた。昔の人々の信仰の姿が描かれている。

廣田さんは、初任校が、新実南吉が務めたということで有名な県立安城高校、最後が西尾東高校だった。退職後、安城市歴史ガイドをしている。数学を教えた。


集合時間には雨が降りそうで、はらはらした。途中で小雨が降った。最後は晴れた。
本證寺は、13世紀、親鸞の弟子、慶円(きょうえん)により開設されたと伝えられている。二重の堀と土塁を持つ、全国でも珍しい「城郭寺院」として知られている。

山門に向かって、左側に赤い蓮、右側に白い蓮が植えられていると言う。今年は遅れていて咲いていない。
山門から歩きはじめて、昔の荘園時代?寺領の広さの感じを知るために、現存する堀とか土塁を見るために、街の中を歩いた。しばらく歩くと、昔の外堀の跡と思われる蓮池が残っていた。

一揆の時の、門徒側か、家康側かどちらの物か分からないが、田んぼから、鉄砲の弾などが出てきた。ガイドの図で紹介した。

例えば、熱田神宮の昔の範囲の大きさは、神宮前や国道沿いの石碑で示されている。驚くくらいの大きさだ。

街の中を歩いて、寺領の大きさを知った。寺領の中に、武士も住んでいた。昔の武士の子孫の家の紹介もした。本證寺公園の構想があり、民家の協力を得て作ると言う。


次に、寺の境内の中に入って、昔の土塁の跡を見た。一揆の後、土塁は埋め戻され、低くなった。内堀と外堀という二重の堀に囲まれていた。


庫裏をかこむものが、2つあり、その外側に東西約320m、南北約310mに及ぶ外堀があった。
堀の底から、土塁の上までの高低差は5.4m以上あった。この土塁の見学をした。


次に、本堂の中に入って、廣田さんの説明をじっくり聞いた。

一向一揆の発端を聞いた。恥ずかしい話だが、私は、一向の意味を知らなかった。ただ、「南無阿弥陀仏」と、唱えると言う意味だ。浄土真宗の信者は、「南無阿弥陀仏」を唱える。浄土宗も同じだ。家康の兵糧集めに怒った、門徒らが、浄土真宗の門徒らの一揆ということで、一向一揆という。

1563年ころ、家康が23歳頃に、兵糧を集めるために、寺の不入権(租税免除と治外法権)侵害が発端となった。
一向一揆では、家康軍を相手に、よく戦ったが、5か月後に和議が成立した。
本證寺は、他の三河三か寺とともに、領主の家康と争った。いったん和議が結ばれたが、巧妙な家康が裏切り、家康から一方的にだされた改宗命令を拒否したため、坊主衆は追放となり、建物も破却されたと伝えられている。

家康の伯母石川妙春尼の尽力もあり、一揆の罪は赦免された。

中略

江戸時代に三河三か寺は、本山―中本山―末寺という本末制度のなかで、本證寺は、中本山の地位を得た。檀家は少ないが、末寺が支えるから、食っていける。「中本山」というのはそういう意味だ。


今日の本證寺の寺観は、江戸時代を通じて、順次整えられた。今日の姿、鐘楼、裏門、鼓桜、経蔵、庫裏、本堂はこのようにして出来上がった。鐘楼は普通のお寺にはないものだ。お城のような構えだ。鼓桜の柱も、普通のお寺のものとは全く違う。

柱には、7月10日に琵琶法師による、相続講の案内のポスターが貼ってあった。
帰るころには、晴れていた。晴れ男、晴れ女の集まったからであろう。運が良かった。

あゆち俳壇のメンバーが集まった。選者の鈴木仁さんに今回の吟行の案内のお礼を申し上げた。
久々に、あゆち俳壇のメンバーに挨拶をした。5人の常連が集まった。8月号の「あゆち俳壇」に、今回の参加者は、吟行の名作を出してくださいと、鈴木仁さんから、激励の言葉を頂いた。

色々分からないことを、廣田さんや他のメンバーにに質問をして、教えて頂いた。浄土真宗と一向一揆との結びつきが分かった。帰るころには、空は晴れた。

駅まで歩いて行こうということで15分くらい歩いた。安城の広い麦畑をアンクルバスの中から見た。もう麦刈りを済ませた所もあった。懐かしい風景だ。日本のデンマークと言われる安城の風景は、のどかでいい。
久しぶりに外出ができた。




posted by 花井英男 at 18:17| 旅行