2018年01月05日

母・いわさきちひろの絵を語る松本猛

ラジオ深夜便
2018年1月5日
【明日へのことば】

「母・ちひろ アトリエの後ろ姿」
美術・絵本評論家 松本猛




いわさきちひろは、常に「子どもの幸せと平和」をテーマとした。


いわさき ちひろ(本名:松本 知弘(まつもと ちひろ、旧姓岩崎)、1918年12月15日 - 1974年8月8日)

は、子供の水彩画に代表される日本の画家、絵本作家。

夫は、弁護士、日本共産党元国会議員松本善明。


いわさきちひろの息子、松本猛がちひろの絵本について語った。

松本猛は、「母ちひろのむくもり」(講談社文庫)を書いている。




平和を願い、子どもを愛し、一人の芸術家として生き抜いたいわさきちひろを、母親として、画家として、ひとりの人間として見つめる。


「思い出のなかの母」「絵のなかの母」「アトリエの母」「ちひろが愛した人たち」「母ちひろと信州」などのテーマでちひろについて明かし、その絵の魅力についても触れる。


松本は、東京芸術大学の卒論で、絵本について取り上げようとした。


担当教官から、絵本は芸術として価値のないものなので、指導しないと言われた。指導教授がいないとも言われた。
それでも、絵本について卒論を書いた。


松本は、今年は、ちひろ生後100年であり、ちひろが芸術家としての価値が確立したと考える。


ちひろの絵本がどのように成立したかを述べた。まだ、没後50年経っていないが、

没後50年が画家としての価値が確立すると考えるとも述べた。


松本は、ちひろの生い立ちを述べた。何が、母ちひろの絵を育んだかを調べた。

東京府立第六高等女学校時代(現在の東京都立三田高等学校)について述べた。同校は、生徒の個性を重んじ、試験もなく、成績表も希望者に配布されるのみだったという。ここでもちひろは絵がうまいと評判だった。


女学校二年(14歳)の三学期、母・文江はちひろの絵の才能をみとめ、岡田三郎助の門をたたいた。ちひろはそこでデッサンや油絵を学び、朱葉会の展覧会で入賞を果たした。

ちひろは女学校を卒業したのち、岡田の教えていた美術学校に進むことを望んだが、両親の反対にあって第六高女補習科に進んだ。


ちひろの絵が生まれる背景には、1回目のいやいやながら望まぬ結婚(20才)(夫の自殺)と、その後の、終戦後に至るまでの満州開拓団の体験があった。


1944年(25歳)には女子開拓団に同行して再び満州・勃利に渡るが、戦況悪化のため同年帰国した。


翌年には5月25日の空襲で東京中野の家を焼かれ、母の実家である長野県松本市に疎開し、ここで終戦を迎えた。

ちひろはこの時初めて戦争の実態を知り、自分の無知を痛感する。終戦の翌日から約一か月間の間にここで書かれた日記『草穂』が現在も残っている。


「国破れて山河有り」(杜甫)と記されたスケッチから始まるこの日記には、こうした戦争に対する苦悩に加え、


数々のスケッチや自画像、武者小路実篤の小説『幸福者』からの抜粋や、


「いまは熱病のよう」とまで書かれた宮沢賢治への思いなどが綴られている。


善明との出会いと画家活動



1946年(27歳)1月、宮沢賢治のヒューマニズム思想に強い共感を抱いていたちひろは、戦前、戦中期から一貫して戦争反対を貫いてきた日本共産党の演説に深く感銘し、勉強会に参加したのち入党した。

途中の経過を省略。


ちひろ美術館は、ちひろの作品の収集展示という個人美術館の枠を超え、「絵本の美術の一ジャンルとして正当に評価し、


1997年4月、長野県安曇野に、広い公園を併設した安曇野ちひろ美術館が開館した。

我が家では、毎年、ちひろの絵のついたカレンダーを使っている。ちひろの生涯を時々思い出したい。


posted by 花井英男 at 14:19| 戦争・平和