ポプラの会
ポプラの会は、県立瑞陵高校の卒業生(昭和33年卒)の奥田先生のクラスの親睦会です。その親睦会に招かれた。地下鉄「原駅」の近くの長次郎というすし屋だった。地下鉄「原駅」は鶴舞線だということを忘れていた。
成田君に原駅で会った。長次郎に行く途中で、久田君(愛教大名誉教授)の通夜の話をした。刈谷の、逢妻駅の近くの葬儀場だった。受付もない、記帳もない、香典も受け取らない、花束もない。読経もない。線香もない。戒名もない。6畳か、8畳の小さな部屋だ。花束もない。奥さんと思い出話をした。喋りまくった。ひっそりとした会場だ。
奥さんが最後の面会の話してくれた。彼に会いに行ったら、待ってたといわんばかりににこっと笑った。喜んでいる様子だった。これが最後の奥さんに対するメッセージだった。奥さんが帰宅すると、すぐ施設から、臨終の電話があった。奥さんにとって久田君の最後の笑顔が最高の贈り物だと言ってくれた。成田君は、用事があり、通夜に行けなかった。成田君に通夜のことを話した。
帰り道、愛教大の同窓生のHさんと一緒だったことを成田君に話した。おなじ外国語科の卒業生なので、話が弾んだ。当時の外国語科の先生のエピソード、カリキュラムなど話が弾んだ。彼は、広島大の大学院博士課程を出て、中京大の教授を務めた。シェイクスピアで博士号を取った。博士号の審査の過程で、名大の岩埼宗治先生(文学博士)が加わったと話してくれた。
学芸大学時代のことをHさんに話した。直木賞受賞作家の城山三郎が、商業教室で教えていた。名鉄電車の中で、城山三郎に話しかけたら、遊びに来いよ、と言ってくれたエピソードを、私は話した。
城山三郎の、渋沢栄一の伝記、「勇気堂々」を面白く読んでいたが、経済関係の記述になって、難しくなり、全部読み終えていない、と私は、成田君に話した。成田君は、青い目の人形の会の活動をして、渋沢栄一が、アメリカ人から送られた親善人形を文部省と協力して、日本中に小学校に配ったいきさつがある。成田君は、その活動を、青い目の人形の会で、紹介している。
Hさんは、施設に入った、岩崎宗治先生の最近の、90歳を超えてお元気な話、久田君のエッセイ、「ロンドン散策」の話をした。久田君が、ディッケンズ学のエキスパートだったこと、久田君がディッケンズ学に進んだのは、広島大学がディッケンズ学の盛んなところだったからだと、教えてくれた。成田君にこのことを伝えた。
ポプラの会は、高齢になり、栄の中区役所の美術画廊での展覧会はなくなった。その代わり数人の集まりだけ続いた。代わりに私の加入が決まった。会合に出てこられるのは、なにかの活動をしている人だという事が分かってきた。
私は、スズキメソードのヴァイオリンに関心を持った。長谷部さんに話がしたい、聞きたいと思った。そこで、ポプラの会に、成田君と奥村君が招いてくれた。長谷部さんは、免許証を返納するどころか、真っ赤な車に乗って運転しているとのこと。85歳を超えていまだに、現役で子供たちヴァイオリンを楽しそうに、教えている、長谷部さんに、そもそもの鈴木メソードとの出会いは何ですか、と尋ねた。親切に教えてくれた。
長谷部さんは、高校時代合唱コンクールでピアノ伴奏をした。これは珍しいことだったという。卒業後、どこの大学に行ったんですか?と尋ねた。ピアノが生かせる、県立女子大学児童福祉学科だったと。