2022年11月24日

ジョン・カビラ兄弟の母について

徹子の部屋   2022年11月24日


ジョン・カビラと川平慈英の兄弟が、母を語った。

この番組は、よく見ます。ジョン・カビラと実弟、川平慈英さんが出演した。

二人の雑談を聞いていて、感心したのは、3人兄弟を育てたお母さんの育て方でした。
貧しいテキサス州だが、どこの州だか(カンザス州でした)、聴き忘れたが、貧しい家に生まれたお母さん。
3人兄弟は、日本人の父とアメリカ人の母のもとに生まれた。

お母さんは、世界恐慌の時代に生まれた。貧しい家だったと語る。そのお母さんの育て方を二人が語った。
アメリカでは、麦を売って、必死に生きていたと兄弟に話した。お父さんと結婚されて、オキナワで生活した。異国の地で、毎日不安があったかもしれない。男の子3人を育てた。そのお母さんは88歳でなくった。

3人兄弟は、仲良しだと言っていた。兄弟が仲良しだということが、私には、珍しいし、ほんとに?と
思うし、うらやましい。そんなに仲良しに育てられるの?と思ってしまう。私自身、4人兄弟だが、そんなに
仲良しではない。

3人兄弟仲良しに育てるというのは、やはり、お母さんのお陰ということも感じた。勿論、番組を見に来ていたお父さんのお陰もあると思う。

 そのお母さんのしつけの仕方をジョン・カビラが話した。毎日、家に帰ると、子どもたち3人に、「今日は、どんなことがあったの?」と聞いた。思春期のことだから、ふてくされて、「何にもないよ。」というと、「そんなことないでしょ、何かあるでしょ」と問い詰められた。苦し紛れに、些細なことを話すと、「そうでしょ!素晴らしいじゃない!」と言って、ほめてくれたという。

 ここで、私が注目したいことは、子どもの安全、安心を守るという親としての仕事である。お母さんは、日本という、異国の地で、子どもたちがどういう状態かを、確認したがっていたと思う。異国の地であろうとなかろうと、親として、子どもが安全・安心の状態かどうかを確認することは、親として大事な仕事であると思う。

 お母さんの前向きな態度が素晴らしい!と思った。オキナワという地で、日本について何もわからない状態で、子育てをしたのだ。いつも、子どもに関心を持ち続け、このように接するお母さんの姿勢に感動するし、このお母さんは素晴らしいと思った。

 3人兄弟が仲良しだということも素晴らしい。お母さんが平等に接したのではないか、と思った。











posted by 花井英男 at 17:22| 子育て

2022年11月23日

守山区志段味 歴史の里 しだみ古墳群

散策と歴史探訪

守山区志段味 歴史の里
しだみ古墳群

愛高教退職者の会  11月例会

2022年11月18日(金)  13時20分 

しだみミュージアム前 集合

 案内は、次の通り。

「2年半ぶりの企画です。コロナ禍、それに日本の政治チョット乱れていますが、いかがおすごしですか。
今回は1年前に計画した中止になった、名古屋市守山区にある歴史の里『志段味古墳』を訪ねます。

東西1.7q、南北1qの自然の中の古墳群、散策しながら旧交を暖め、楽しいひとときをすごしましょう。」


久しぶりに、退職者の会があった。楽しみにしていた。都合で、集合時間に間に合わなくなった。まあ、ゆっくり行こう、と決めた。

大曾根まで地下鉄で出て、そこから、ゆとりーとラインのバスに乗る予定だった。途中で、地下鉄「砂田橋」で、ゆとりーとラインへの接続を知った。砂田橋で降り、エレベーターで3階まで行くと、ゆとりーとラインのバス停だった。便利だ。

着いたら、すぐに「中志段味」行のバスが来た。運転手が親切で、「このバスで行けます。行き方を教えてあげるから、乗りなさい」と言ってくれた。

久しぶりに乗るゆとりーとラインから、名古屋の景色が良かった。途中で龍泉寺を通り過ぎた。やはり、距離がずいぶんあった。

中志段味でおりて、次のバスが来るまで、おにぎりをほおばった。うまかった。なかなか、バスが来なかった。上志段味までかなりあった。名古屋のはずれだから、ずいぶん遠いなあと思った。
上志段味で降りたが、どこへどういったらよいか、困った。案内をなくしてしまった。

運転手の言った言葉を思い出した。「信号を渡って、右へ行き、左に行きなさい」その通り歩いた。途中で、神社のような勝手塚古墳があった。通り過ぎた。

運転手の言葉通りに歩いたら、それらしい建物が見えた。広い駐車場を通って、建物の中に入った。中に、退職者の会のメンバーらしき連中がみえた。なんとか、まにあった。皆が、受付をしていた。静かだった。皆、案内係について館内を回り始めた。

黙ってついていった。知り合いがいないか探した。高田さんがいた。しばらく展示を見て歩いていた。高田さんが私を見つけてくれた。「受付をしてください」と言われて参加者名簿に記入した。19名の参加者だ。高田さんとは、外へ出てから、ゆっくりと会話ができた。

案内係に従って、館内を回り、展示品を見た。館内の出発点にある、志段味古墳群のそもそもの起源を説明する動画が良かった。

近くを流れる庄内川沿いにある古墳群は、海とつながる、重要な村であった。そこの王を祭る墓が作られた。ヤマト王権とつながる王とそれにつながる部下たちの墓であった。大中小、いろいろな墓だ。これが古墳群址となった。

館内の展示を見て外へ出た。広々とした外は気持ちが良かった。例会にいつも犬を連れてくるKさんに挨拶した。今回、大型の犬を2匹連れてきた。「ボルソイ犬」という。「ボルソイ」はロシア語で、「俊敏」という意味だ。狩りに使う大型犬で俊敏だという。

時速50キロで走るという。ロシアの貴族階級が所有していたので、迫害を受け、ロシア革命で、殺された。東ヨーロッパに逃げた。2匹は、品の良い、人懐っこい性質で、誰にでも愛想が良くて近づいてきた。好感が持てた。
 
 ところが、一匹は、小型犬には、相性が悪く、「飛びついていく」と、Kさんはいった。  だから、近づく他の犬には、警戒して、離れ離れに歩いていた。

 もう一人、原発保護犬を連れて参加した人がいた。その犬は元気に歩いていた。こちらは、あまり愛想は良くなかった。

 広々とした、国の史跡という古墳群址を歩いた。小春日和で、天気が良く、気持ちが良かった。久しぶりの例会で、知り合いにも挨拶した。志段味大塚古墳に登った。降りて、下で、写真を撮った。

 近くには、東谷山フルーツパークがある。県立大学看護学部のキャンパスもある。名古屋の端っこにある。
久しぶりの会であった。またいつかゆっくりと来たい。帰りは、バスの便は少なく、3時間くらいかかった。ずいぶん、遠いところだ。

例会の準備をしてくれた、舟橋さん、山内さん、ありがとうございました。










posted by 花井英男 at 11:05| 教養

2022年11月14日

「ドイツへの傾斜」  司馬遼太郎

「ドイツへの傾斜」  司馬遼太郎


司馬遼太郎  「この国のかたち」  文芸春秋


たまたま読んでいた、司馬遼太郎の「この国のかたち」(文芸春秋)の中に、「ドイツへの傾斜」を読んだ。なかなか面白い文章だ。そもそも、なぜ、日本が、日露戦争、日清戦争、太平洋戦争に突き進んだのか?ということにもつながる。

明治の大日本帝国憲法がどのようにできたのかにもさかのぼる。司馬遼太郎は、分かりやい言葉で、誰にでもわかる言葉で、明治時代の蘭学者たちが、ドイツ人のものの考え方、制度を取り入れる方向に向かっていった経緯を述べる。

司馬は次のように述べる。「日本近代史に、“ドイツへの傾斜”がある。アメリカ人で、日本近代史を専門とする人が、『どうしてそんなことになったのか』と、否定的な表情で私に聞いたことがある。」

「江戸期、日本にとってオランダがヨーロッパ文明そのものだった。医学も理化学もオランダ語によって知ったし、オランダ語によって知ったし、またペリー来航以後、幕府が設けた長崎に設けた海軍教育機関も、オランダ式だった」引用文

が、維新の翌年の明治二年(一八六九年)という早い時期に、日本政府はオランダ医学を捨ててしまう。」引用文

「そのようにすべく政府の要路に対して物狂いしたように説いてまわったのは、相良友安(佐賀藩)と岩佐純(越前福井藩)という二人の蘭学者だった。」引用文


「英語圏に見習って国づくりをすべきだった。という言い方も十分以上に成立する。・・・中略・・・ただ、アメリカは、その後南北戦争(1861〜65年)がおこって、幕末における対日外交が手薄になった。」引用文

イギリスも、フランスも、幕府に対して、抜きんでて能動的な対日外交を展開した経緯があった。

「明治維新を起こして4年目(1871年)に、プロイセン軍がフランス軍を破ったことが大きい。在欧中の日本の武官は、目の前で鼎の軽重を見てしまった。かれらはドイツ参謀本部の作戦能力の卓越性と舞台の運動の的確さを見、仏独の対比もした。」引用文。


「憲法についても、そうだった。」
「憲法をつくろうという機運は明治十年代からあり、さまざまな検討が行われたが、結局はドイツの後進性への親近感が勝った。」引用文


面白いのは、次の文章だ、「フランス憲法については、“過激”すぎるという印象だったし、後略」
「ドイツについては、ひいきというよりも、安堵感だったろう。ヨーロッパにもあんな田舎くさいー市民精神の未熟なー国があったのか、とおどろき、いわばわが身にひきよせて共感した。」引用文


中略

「陸軍が統帥権を根拠にして日本国を壟断(ろうだん)してはじめるのは昭和十年前後だが、外交面でまずやったのは、外務省や海軍の反対を押し切って、ヒトラー・ドイツと手を組むことだった。」

中略

「日本の近代化時代のドイツ偏重や、陸軍におけるドイツ傾斜というのは、一種の国家病のひとつだったとしかおもえない。」引用文















posted by 花井英男 at 17:04| 戦争・平和