2022年04月29日

ミロ展

開館30周年記念

スペインの巨匠、

Joan Miro and Japan

ミロ展

日本を夢見て


2022 4/29fri―7/3sun

愛知県美術館

愛知芸術文化センター10階


ミロという画家には全く関心を持っていなかった。日曜美術館でも取り上げたことがなかったと思う。広い会場の中に並べられた作品を順に見ていった。

初期の作品には、あまり興味を持てなかった。バルセロナに生まれた芸術家ジュアン・ミロ(1893−1983)は、現代スペインの巨匠だということだ。ピカソと並ぶ人物だという。

若いミロは、日本にあこがれ、浮世絵や民芸、焼き物、郷土玩具、版画など、台所で使う使う「たわし」、商人が仕事に使う、藍で染めた「前掛け」まで集めていた。何から何まで日本びいきであった。

書も絵もたわしも、前掛けも、俳句も、日本の伝統的な美に深く共鳴していた。こんな人がいたのか!!20年ぶりのミロ懐古展だという。ここを見ろ!という主催者側の意気込みがわかる。

ミロは長い間、日本を夢見ていたという。73歳で念願の日本に来られた。憧れの日本各地を訪ねた。京都、信楽、名古屋は、守山区翠松園の加藤藤九郎の窯元にも来たという。翠松園は、初任校・県立緑が丘商業高校・現緑が丘高校の隣接地域だ。信楽では、大きなタヌキをなぜたという。

会場には、ミロのアトリエや家にある、日本のものが、たくさん、ミロの制作意欲を刺激したと思われる、品々が日本へ里帰りして、展示されていた。

私は、好きな絵葉書を2枚買って帰った

 ミロの出身地と生涯を過ごした土地について、知っていることがいいと思った。

 ミロは1893年、スペイン、カタルーニャ地方の中心都市、バルセロナに生まれた。ちなみに、ガウディ、ダリもカタルーニャの出身である。

 1930年代から、ミロはマリョルカ島(スペイン領)のパルマ・デ・マヨルカにアトリエを持ち制作した。

 1970年には、日本万国博覧会(大阪万博)のガス館に陶板壁画『無垢の笑い』を制作するため来日した。

 ミロは1983年12月25日、アトリエのあるパルマ・デ・マヨルカで老衰のため90歳で死去した。
 
 瀧口 修造(近代日本を代表する美術評論家、詩人、画家。)と親交があったという。
 瀧口 修造は、1966年に日本展開催のために来日したジョアン・ミロと出会い、後に共著詩画集『ミロの星とともに』(1978年、平凡社)を刊行した。
 



posted by 花井英男 at 17:57| 文学・芸術

2022年04月05日

筑波大 文京キャンパス訪問   東京・茗荷谷

私の趣味―地方の国立大学のキャンパスをみること

  
 2022年4月5日


 東京の茗荷谷(みょうがだに)にどうしても行かなくては、ならなくなった。新幹線に乗ると、富士山を見るのが楽しみで、行は、左側の席に座る。今日の富士山は、きれいだった。雲が少しかかっていたが、ほとんど裾の全部がきれいにみえた。写真に撮ろうと、スマホを取り出そうとしたら、あいにくすぎてしまった。


 帰りもみようとしたが、あいにく、雲っていた。富士山のすそ野の広がりを全部見るというのは、ほんとに幸せだ。

 さて、茗荷谷といえば、奈良教育大学大学院時代の恩師、小野昌彦先生が、現在、筑波大学文京キャンパスの心理相談室に勤務されているとので、ついでに寄っていこうと思いついた。居ないかもしれないが、まあいいやと思い、昼食を、大学のそばの、公園でゆっくり昼食をとった。

 元筑波大学(東京教育大学)のキャンパスだった、敷地が、文京区に寄付され、広い公園になった。すごく立派な公園だ。若い人たちが、シートを広げ座っていた。若いお母さんたちが、電動自転車に子どもを乗せてきて、三々五々と会話していた。子どもたちは自由に周りで遊びまわっていた。
 
 トイレもあるし、電話ボックスもある。彫刻もある。天気もいいし、のんびりできる。公園を全部見て回りたい気持ちだった。昼飯をおいしく食べて、機嫌よく、5階建ての筑波大学の中に入って行った。運よく、会えればいいし、会えなくてもいいと思った。

 守衛がおりお辞儀をして、丁寧に、用件を伝えた。402号だと告げられた。エレベーターで上がった。静かで誰もいなかった。402号室をノックして、「名古屋の花井です」と自己紹介して、「小野先生おみえですか」告げた。中年の女性が愛想よく応対してくれた。中から、「名古屋の花井先生ですか」と言って出てきてくれた。

 「中京大学の認知・行動療法学会の時に会った、Sです」と言って、青年が出てきた。「今、筑波大のK先生のもとでやっております」と挨拶してくれた。「先生は、今日は明治学院のほうです」、・・・・「お元気そうで何よりです」と私。Sさんは、大学院生の時、緘黙・不登校の小学生を小野先生となおし、その児童は小学校に復帰し、元気に活躍した。

 その成長ぶりは、小野昌彦先生からも聞いた。緘黙の児童をなおすことは、難しい。すごいことをやってのけた。その実践研究のポスター発表を、中京大学でされた方だ。小野昌彦先生の後継者だと思う。私は彼から発表を聞くことができた。その時以来の再会であった。なつかしさが出てきた。・・・「先生によろしくお伝え下さい」と言って帰った。

 小野昌彦先生は、日本の屈指の不登校研究の研究者、実践者で、母校・筑波大茗荷谷の 心理・発達教育相談室相談員 大学等非常勤研究員も務める。
 私が、今あるのは、小野昌彦先生の指導のお陰です。不登校の子どもたちの教室復帰を実現してきた。

 現在、スクールカウンセラーが学校に配置されたが、不登校の問題が未解決のままになっている。膨大な予算が組まれているが、その費用の効果が出ていないのが実情だ。スクールカウンセラーの質の向上が求められている。










posted by 花井英男 at 21:52| 認知行動療法