2020年10月04日

堀尾一郎 絵の旅・祈りの旅 展

堀尾一郎 
絵の旅・祈りの旅 展
Ichiro Horio Works Archive 1989-2020

瀬戸市制91周年記念 瀬戸市美術館 特別展

2020.10.3(土)―11.29(日)
主催 瀬戸市美術館  公益財団法人瀬戸市文化振興財団


堀尾先生から招待状をいただき、久しぶりに瀬戸へ出かけた。瀬戸電には久しぶりに乗った。
尾張瀬戸駅から歩いて15分以上かかった。瀬戸の風景を楽しみながら歩いた。

今回の展覧会では、珍しく、先生は、一つ一つの作品に解説、説明、作成意図などを簡単に付けた。聖書の世界の出来事と、現代の出来事を結び付けている。

美術館から昼食を取ろうと出たところで、美術館の玄関で、堀尾一郎先生に出会った。「会えてよかった」、「おめでとうございます」、「作品の解説、説明が良かった」と伝え、手土産をお渡しした。

今回、堀尾先生は、「画集 堀尾一郎 絵の旅・祈りの旅
Ichiro Horio Works Archive 1989-2020」(3000円)を出版された。

美術館の玄関には、北川民次の陶像が出迎えてくれる。「バッタ北川民次」の像。北川民次は、陶工を愛した。

堀尾一郎先生は、北川民次と親交を結んでいた。

瑞穂CBT相談室のホームページ(「相談の申し込み」と「料金」の頁)には、

堀尾一郎先生の個展で出ていた作品を掲載しております。


帰りは、ゆっくりと瀬戸駅周辺の街を歩き、陶磁器店を訪ね、食器を買って帰った。



同時開催で、次の展覧会も開かれている。

瀬戸信用金庫アートギャラリー企画展

堀尾一郎硝子絵展

ICHIRO HORIO EXHIBITION
ー世界の旅ー

令和2年10月3日(土)〜令和2年11月8日(日)
瀬戸信用金庫アートギャラリー



こんもりとした山の上の森の中に、美術館はあった。
1階で、
「初期瀬戸染付の謎」と 「加藤民吉とその時代」
の簡潔な記述を見た。民吉の生涯について、少し述べます。


1772年に、生まれた、民吉は、窯元の次男に生まれたので、「窯を継ぐのは長子のみ」などの規制によって生産量を制限していたため、家業を継ぐことは許されなかった。民吉は、九州で先進的な磁器の技術をまなぶきっかけをつかんだ。瀬戸に製磁法を持ち帰るためには、相当な苦労があった。

九州での民吉の修行について次に引用します。
「享和4(1804)年民吉は、天草東向寺(曹洞宗)の天中和尚(愛知郡菱野村出身)を頼って、一人九州へ旅立った。九州に着いてからは、苦労と努力を重ねたと伝えられ、やがて丸窯や柞いす灰など、肥前の技法を習得した民吉は、文化4(1807)年瀬戸に戻り、有田に遅れること約200年、民吉の帰郷によって伝えられた肥前磁器の製造法のおかげで、瀬戸の染付磁器は急速に進歩し、発展した。こうした業績をたたえ、民吉は瀬戸の磁祖として窯神神社に祀られ、9月の第2土・日曜日には「せともの祭り」が開催されている。」

加藤民吉の生涯について、ネット上に出ている、民吉の九州への旅立ちのきっかけは、「享和元年(1801年)に父・吉左衛門らとともに熱田前新田(現在の名古屋市港区)の入植者として名古屋に移り住んだ時であった。やがて、民吉らは新田開発を指揮していた熱田奉行・津金胤臣と出会いがあった。

愛知県出身のお寺の坊さん(九州在住)のお陰で九州での修行ができた。九州では、肥前、肥後のお寺の坊さんたちの紹介状をもらい、各地を訪ねていた。民吉が肥前、肥後で技術を習得するには、相当な苦労があった。肥前、肥後から技術が藩外に出ることを警戒していたからだ。

例えば、九州で、「庄屋から「他国の者は置けない」と言い渡された」とか、「民吉は有田焼の上絵の技法を知ろうと考え、天草出身の振りをして有田の上絵屋を訪れたが、鍋島藩の情報統制の厳しさから徒労に終わる。」とか、

「仁左衛門の息子(嫡子の新左衛門?)が伊勢参りのため佐々を留守にしていた時期に窯入れが行なわれたことで釉薬の調合なども知ることが出来た」このことは、すきを狙って技術を盗んだということか。

私は、平戸へ修学旅行に生徒と訪れたとき、平戸の陶磁器屋の主人から、加藤民吉をこき下ろす、ショックな話を聞いた。その話は、現代の週刊誌的な内容であった。

民吉の「現地妻説」について、ネット上に出ている。省略します。

民吉は、今でいう、「産業スパイ」であった、という。確かに、今でいう、企業秘密になるだろう。それを守るのは当然かもしれない。肥前平戸(長崎県)、肥後(熊本県)天草の製磁法を学んで帰り、丸窯(まるがま)を築いて染付磁器の製法を完成。瀬戸に伝えた功績は大きい。瀬戸は民吉の陰で陶磁器の生産が栄えた。瀬戸にとっては大事な人物である。

肥前、肥後で修行中に地元の娘と結婚した。瀬戸へ帰るときに、その妻を連れて帰らなかった。陶磁器の店の主人は、それを非難した。「そのことが許されない。」と陶磁器の店の主人の話であった。

朝日日本歴史人物事典の解説によれば次のような記述がなされている。

「文化4年帰国し,染付焼御用達となった。民吉の持ち帰った技術によって瀬戸の磁器焼成技術は向上し,陶器窯の本業焼に対し,新製と呼ばれる磁器焼成が盛んになり,東日本の一大磁器産地として飛躍的な発展をすることになった。」







posted by 花井英男 at 19:19| 文学・芸術