2017年02月27日

認知・行動療法コロキウム’16in 小浜

認知・行動療法コロキウム‘16 in 小浜
2017年2月24―26日
主催:一般社団法人 認知・行動療法学会

会場:サンホテル  やまね
現在の天皇が、皇太子の時に、夫妻で宿泊されたホテル

準備委員長 岡本章宏(嶺南こころの病院理事長)
準備スタッフ:嶺南こころの病院スタッフ、CBTセンター 西川公平、別所ちさと 



2月24日



14:30〜18:30  1つのケース発表・コメンテーター発表・グループ討議・質疑応答
16:15-16:45  清水栄司先生 (千葉大学大学院医学研究院認知行動生理学・教授・医学博士)講演
「難治性うつ病の記憶書き換えを用いた認知行動療法の新しい発展」

18:00―1830 パネルディスカッション「事例検討へのプロセス」
原井宏明先生、岡嶋美代先生など4人が出演
19:15〜懇親会など


2月25日


9;00〜18:30  
4つのケース発表・コメンテーター発表・グループ討議・質疑応答
19:15〜懇親会など


2月26日



8:30〜11:45  2つのケース発表・コメンテーター発表・グループ討議・質疑応答
11:45〜 修了式

帰宅したら、翌日、NHKで昼の時間に、福井ウィークの番組で、小浜のさば料理の紹介をしていた。
敦賀、小浜はさばなど新鮮な魚が有名であるようだ。

コロキウムは、久しぶりの参加。解離性障害へのアプローチがひと段落したので、応用行動分析(ABA)への更なるアプローチを目指し始めた。

3日間に出された、7つのケースに対するコメンテーターは、若手の大学教員、心理士が次々と登場した。常連の大学教員は少なくなった。世代交代が進んでいる。若手の研究者がどんどん出てきている。うれしい限りだ。

準備委員長の岡本先生夫妻は、終始、にこやかに参加者に接し親切に応対されました。プログラムはいろいろ配慮され、すばらしいものでした。CBTセンターの西川先生、別所先生の配慮ある研修会運営には感謝しております。


今回の医師、臨床心理士は、滋賀県、福井県、京都府関係の、CBT,ABA(応用行動分析)研究の人たちのつながりが感じられた。

新潟大の研究者たちは元気だ。早稲田も元気だ。原井先生、岡嶋先生も常連だ。関西学院の米山先生とも挨拶を交わした。ドクター達が認知行動療法学会の参加され、このコロキウムに参加された人が目立つ。
全国の臨床現場に活躍する若手のCPが続々と実践発表をすることになるだろう。

坂井先生(認知・行動療法学会理事長・中京大)とは敦賀駅で偶然一緒になった。挨拶し、敦賀の話をした。同じく中京大の首藤先生とも挨拶を交わした。


昼食、夕食、事例検討の席で隣同士に座った人たちと交流する事が出来た。名刺の交換などをした。4月23日、東京大田区で行われる、USPT研究会ワークショップの案内を、医師、臨床心理士に送らせていただくことにした。


そこで、私自身の取り組んでいる、USPT,ブレインスポッティングの宣伝をした。関西学院の博士課程の研究者(CP)に、イップスの研究書を紹介することになった。

少しでも役に立つのはうれしい。
臨床スポーツ心理学の研究をしている方だ。


出席した全国から出席した臨床心理士、医師、大学教員、看護師、作業療法士など職種は広い。
特に、病院などで臨床現場にいる若手のCP(臨床心理士)達と交流が出来たのはうれしい。同じクリニックから、B君が参加した。帰りはバスの中で、ゆっくり話が出来た。

今回の大きな収穫の一つは、難治性うつ病のトラウマ治療に取り組む、清水栄司先生(千葉大学大学院医学研究院認知行動生理学・教授)の講演は、大変勉強になった。
「臨床精神薬理」第20巻3号特集(2017年3月)「うつ病における『真のrecovery』 を考える」というタイトルの投稿スクリプトが配布された。

2泊3日の研修は終わった。充実感の持てる内容であった。ある青年が「つかれたあ」と言っていたが、かなりハードなスケジュールといえる。

ABAを基礎から勉強することが必要だと思っている。

岡嶋美代先生から、来年のコロキウムの予定が発表された。下記のように、静岡県御殿場高原のホテル「時之栖」(ときのすみか)で開催される。

また、認知・行動療法学会が新潟で開催されることが新潟大学の研究者から予告された。
新潟大の先生たちは、かわいい朱鷺(とき)の帽子をかぶって宣伝をされた。


認知・行動療法コロキウムin 御殿場 時之栖(ときのすみか)
2018年2月10-12日


更に、
今年度の認知・行動療法学会は新潟で開催される。
2017年9月29日―10月1日
新潟コンベンションセンター
朱鷺メッセ


終わり




posted by 花井英男 at 14:58| 認知行動療法

2017年02月23日

三浦綾子の作品「母」

三浦綾子の「母」を読んで

三浦綾子の「母」が映画化された。名古屋ではまだ上映されていない。
北海道の各地ではこの2月下旬から上映されるという。

メガホンを握るのは、キリスト教徒の山田火砂子(ひさこ)監督(現代ぷろだくしょん)。

小林セキ:寺島しのぶ
小林多喜二:塩谷瞬
駐在:徳光和夫
の配役。



「現代ぷろだくしょん」では、1953(昭和28)年に小林多喜二の『蟹工船』を映画化。山田監督の夫、山田典吾が製作した。それ以来、多喜二の母を描いたこの作品の映画化は、山田監督の悲願でもあったという。

「84歳になった山田火砂子(ひさこ)監督は、日々の感謝とともに映画への情熱は途絶えることがない。」と述べる。

当分、名古屋では、上映されそうにないので、原作を読むことにした。2日間で集中して読んだ。

大活字本シリーズ。母(上下巻)三浦綾子  底本角川文庫
三浦綾子は、キリスト教徒の作家であることは知られている。
1992年に書きおろした作品。


三浦は、時代と社会の不条理を真正面から見つめなおして、「母」と「銃口」を書いた。
巻末にある、文芸批評家の久保田暁一の作品解説が参考になった。

88才の多喜二時の母セキが自分の思いを秋田の方言なまりの言葉で語り聞かせる形で書かれている。

久保田は、ゴーリキーの「母」を思い出したという。
作品に登場する息子の真実を母親として本能的に理解し母親自身が革命的な活動家になって、権力と戦ったという姿描かれている。

しかし、多喜二の母は、どこまでも家族を愛し、多喜二を信頼して生きる素朴な働き者の母であった。

母の語る多喜二はどういう多喜二だったか。

多喜二は、小樽の銀行に勤めて初めてもらった給料をはたいてバイオリンを欲しがっていた弟三吾に与える。
また、家庭を救うために身を売らねばならなかったタミを、大正14年に5百円の金を工面して見受けし、自由な身にした。母セキは全面的に多喜二に信頼を寄せた。

母と多喜二の会話を見てみよう。
「母さん、おれはね、みんなが公平に、仲よく暮らせる世の中を夢見て働いているんだ。ストライキの手伝いをしているんだ。恥ずかしいことは何一つしていないからね。結婚するまでは、タミちゃんにだって決して手ば出さんし・・・だからおれのすることを信じてくれ」
    そういってね、わだしが、
「多喜二のすること信用しないで、誰のすること信用するべ」って言ったら、うれしそうに笑っていた。

 親子の会話でこんなすばらしい会話があるだろうか。

 だが、多喜二は、社会の不正をただすために作品を書き、共産党員として活動するがゆえに銀鉱はクビになり、投獄もされ、最後には築地の警察署で特高に虐殺された。

母セキは、小樽の党の者に勧められて共産党に入党したが、長女チマが行っていた教会の牧師や教会員とも親しく、葬儀は教会で行ってくれるように頼んでいた。

セキがキリスト教に魅かれたのは、キリストの十字架の痛ましい死を描いた絵を見て、キリストの死に、多喜二の死を重ね合わせて考えた時であった。

多喜二の拷問による死をキリストの死と重ね合わせたセキの思いは、三浦綾子自身の思いであったと、指摘する。

イエス・キリストの死と、多喜二の死の惨めさに共通の悲しみを見た三浦綾子の視点に注目する。

有名のピエタの絵に描かれた聖母マリアが悲しみに耐える姿と、多喜二の母セキの悲しさを重ね合わせて思いをはせた三浦綾子の視点に注意したい。


ルーブル美術館にカルトンの作「アヴィニョンのピエタ」は、15世紀のフランス絵画の最高傑作の一つだとされているという。

多喜二は、1933年2月20日に逮捕され、その日のうちに、虐殺された。今年も2月20日が来た。多喜二のことを誰が思い出しているだろうか。



終わり
posted by 花井英男 at 18:03| 戦争・平和

2017年02月19日

大喜町老人会の勉強会

平成28年度大喜地区勉強会

日時:平成29年2月16日(木)午後1時30分〜3時00分
会場:大喜寺
講演:私たちの「大喜」あれこれ

講師::郷土歴史研究家 松田史世様
参加賞:亀屋芳広 不老柿 2個
主催:大喜地区老人クラブ


大喜寺の客殿に町内の老人が60〜70名集まった。町内会の会場となる、広間一杯に集まることはまれだ。日頃見かけたことのない人ばかりだ。

松田さんは、同じ町内の人で顔見知りだ。奥さんとも会えば挨拶する。彼は、生涯学習センターで、郷土史の研究会をしているという。品のある人だ。
予めレジメを頂いていた。

それは次の通り。

目次


1 大喜の位置 (瑞穂台地)(大喜の位置)             1
2 大喜の遺跡 (大喜の遺跡)(瑞穂式土器)            1
3 大喜の社寺・伝承 (お宮)(お寺)(お城)(牛巻の大蛇)     2
4 瑞穂小学校 (運動場の様子)(教室の様子)(校歌)(北村斌夫先生)4
5 養鶏業 にわとり (大喜の養鶏業)(雌雄鑑別協会)(映画)     7
6 区画整理事業 (瑞穂耕地整理組合)(田光池)(幻の町名)(群道・電車バス)  10
7 大喜の村勢 (所管の移り変わり)(書き上げ書)(伝統行事)     13

大喜は紀元元年頃から人が住んでいたことが分かり、これは日本の歴史と同じ長さの歴史で驚きます、2677年の間には大きくも変化しもう昔の姿は留めておりません、戦前から集まった資料で大喜の歴史を纏めました、これをきっかけに色々教えてください。

以上が、レジメである。



「2677年」は皇国史観に基づくものと思われる。
日本の歴史を、万世一系の天皇を中心とする国体の発展・展開ととらえた歴史観。日中戦争・第2次世界大戦期に支配的となった。

日本国民を悲惨なアジアへの侵略戦争に導いた思想。

故三笠宮殿下(昭和天皇の弟・東京芸術大学名誉客員教授)(古代オリエント史歴史研究者)が悲惨な侵略戦争への反省を記述している。
あの太平洋戦争を痛烈に憎み、反省されていたという。次に三笠宮殿下についての文章を引用する。

「三笠宮は、1943年中国南京に赴任され、「聖戦」の美名からかけ離れた日本軍の暴行を知り、「略奪暴行を行いながら何の皇軍か」と言われたり、又、「偽りを述べる者が愛国者とたたえられ、真実を語るものが売国奴と罵られた」世の中を経験してきたと語られた。


更に罪もない中国人に対して犯したいまわしい暴虐の数々・・・とか、内実が「正義の戦いでなかった」とはっきり著書で述べ、一部から非難されたが、「わたしは間違ったことは書いていない」と断固とした態度を貫かれた(しかも一般の兵士は勿論、国民も公然と批判すれば忽ち弾圧される時代だったが・・・)」
「三笠宮さまとわたし」白井文夫


三笠宮(昭和天皇の弟)の太平洋戦争に対するこのような姿勢は語り継がなければいけないと思う。
三笠宮殿下は、2月11日の建国記念日について、歴史学者としての次のようなエピソードがある。


初代・神武天皇が即位したとされる西暦紀元前660年2月11日を「日本建国の日」とする)の復活への動きが具体的なものになってくると、考古学者・歴史学者としての立場から『神武天皇の即位は神話であり史実ではない』として、「神話」と「史実」は切り離して研究されるべきと強く批判し、積極的に「紀元節復活反対」の論陣を張った。

現在の天皇が戦争犠牲者への慰霊の旅を生涯続けてこられた経緯に敬意を私は持つ。

皇国史観への反省がないのは残念だ。松田さんに会ったら、講演の労をねぎらい、このことを伝えたい。彼の講演内容そのものには大変感心した。

80代後半の松田さんがこれだけ生涯をかけて研究を続けてきたことに敬意を持つ。パワーポイントを使って、1時間半があっという間に過ぎた。

大喜は、瑞穂台地にあり、弥生時代から人々が住み、我々は、弥生人から80代目の子孫であるという指摘は面白い。

「大喜」をどう読むのかについて、触れた。交差点の道標は「だいぎ」、バス停の表示は、「だいき」と食い違いに日頃、住民として悩む。
元は「だいぎ」と濁って読むのが正しいという。

天保(てんぽう)(1830年12月10日〜1844年12月2日)の書き上げ地図では、瑞穂村全体の村役場や村に1校の瑞穂学校は大喜集落にあったと。
古地図の収集をしているのはすごい。

面白いと思ったのは、地層の断面である。住宅建設が進むにつれて、丘がどんどん削られ、断崖絶壁のがけが生じた。田光八幡社の建つ小山の東側には、平成25年には、6mに及ぶ古代の地層の断面が現れたという指摘である。写真をとっておいた彼の功績がすごい。地層の解説はすばらしい。

次に面白いには、田光八幡社と民家の石垣の解説。日頃、見ていた石垣は、大正時代に築かれた6mの石垣。100年を経ってもびくともしない。これは熊本城のものと同じだという。

次の面白いと思ったのは、「牛巻譚」(うしまきたん)の故事。牛巻の地名は、身近だ。

その話は次の通り。
熱田台地と瑞穂台地の間に流れる精進川(今の堀川)蛇行した深い淵があった。周囲には昼なお薄暗く村人は大蛇が住み、牛を巻いて食べると恐れていた。


弘治2年[1556年]の夏、熱田神宮神官が勤務を終え対岸の大喜の家に帰る途中、東の空に黒雲が垂れ怪しい光が眼を遮り、村人の「牛が巻かれる」の叫び声がしたので、大蛇に違いないと思い、神宮長屋へ行き、愛用の弓矢を小脇に抱え、精進川へ急ぎ着いたら、大勢が見つめる先には、今まさに牛が大蛇に巻かれ餌食になるところだった。

この神官は、弓を力一杯絞り大蛇の頭を狙って射ちました。手ごたえがあったので2の矢、3の矢を打ち込み退治した。「大蛇の祟りがあるといけない」と言って、近くに使を築き弔いました。深い淵のあたりを牛巻と呼ぶ地名となった。

このような話をたくさん聞かせて頂いた。いつか道で会ったら、話をしてみたい。

終わり

posted by 花井英男 at 16:04| 戦争・平和