2022年05月04日

「一茶の生き方」 俳人  大谷弘至

解説アーカイブス これまでの解説記事

「一茶の生き方」

俳人  大谷弘至


番組 NHK視点論点を聞いて

2022年5月4日


 
  俳人  大谷弘至さんの 番組 NHK視点論点を聞いて、大変感銘を受けました。
NHKアーカイブから全文を引用し、皆さんに紹介させていただき
ます。よろしくお願いします。


 江戸時代の俳人、小林一茶は今や日本だけでなく世界中で愛読される存在ですが、その一生は苦難に満ちていました。きょうは一茶の俳句や生き方から私たちは何を学べるのか、お話します。

 一茶は幼い一人娘、さとを天然痘ウイルスによって亡くしています。
文政二年(一八一九)、一茶が五十七歳のときのことです。
老いて授かった娘ということもあり、一茶はさとを大変可愛がっていました。それだけにショックは大きかったようです。
一茶は、さとの死を受けて、次の句を詠みました。

露の世は露の世ながらさりながら


 わたしたちが生きている世界は、朝、草木の葉っぱの上に結んでは消えていく露のように儚いものであるとは重々承知しているけれども、そうであるとはいえ、つらいことである。
そのように一茶はこの句で言っています。

 娘の死からくる悲しみを乗り越えることができない、現実を受け入れることができない、未練がましい、そんな弱い自分をあるがままに俳句にしています。

 悲しみを飾るのでもなく、無理に堪えるのでもなく、ただただ、打ちひしがれた、あるがままの心の有り様を述べているのです。

 この句がわたしたちの胸を打つのは、一茶があくまでも一人の父親として、娘を失って悲しみに暮れる飾らざる思いを吐露しているからではないでしょうか。

 いっぽうで、一茶以前の文学では、こうした悲しい出来事に遭ったとき、世の無常を述べて、さらりと流す、そういった悟りきった態度を取るのが常でした。

 「所詮、人の世は露のように、はかないものである」といって折り合いをつける。それが文学的な態度だったのです。
 しかし、一茶はそれとは真逆のことをこの俳句で言っています。

「露の世は露の世ながらさりながら」。


 この「さりながら」の五文字に一茶の思いのすべてが詰まっています。

 この俳句が収められている句文集『おらが春』には、一茶の菩提寺である明専寺の住職の幼い息子が川で溺れて亡くなってしまうエピソードが描かれています。

 運び込まれた息子の亡骸を前に、住職夫妻は人目もはばからず号泣します。
日頃、人々に「この世は無常のものである」ことを説く僧侶ですら、そのように嘆き悲しむのだと一茶は感じ入ります。

 ひるがえって、一茶の娘、さとが亡くなったとき、やはり一茶の妻、菊も泣き崩れてしまいます。
悲しむ菊に対して、それは無理もないことだと一茶は慰めます。


 「母である菊は死に顔にすがってよよ、よよと泣くが、それは無理もないことである。この期に及んでは、行く水が再び帰らない、散る花は梢にもどらないなどと諦め顔をしてみても、さとへの思いを断ち切り難いのは親子の恩愛の絆ゆえである」と言っています。

 明専寺の住職でさえ、息子の死にひと目もはばからずに嘆き悲しむのに、どうして自分たちのような凡人が娘の死を諦めることなどできようか、というのです。とてもリアルな姿ではないかと思うのです。

 わたしたちはいま、コロナ禍によって、さまざまな問題を抱えています。いまなお多くの人たちが不自由を感じながら生活し、なかには苦境に立たされ、孤独に苦しめられている方もいらっしゃいます。

 そうしたなかで、悲しみや辛さを表に出すことは、弱いことだとみなされたり、他人の視線を気にして、無理に我慢をしてしまったりすることがあるのではないでしょうか。

 そうしたときに、一茶のように、自分自身に対しても、他者に対しても、「あるがままでいいよ」と言える心を持ちたい、私自身、そういう人間でありたいですし、社会全体がそうなってほしいと願う次第です。

 いま、わたしたちは人生百年時代を迎えています。
健康で円満に長生きできればよいですが、誰もがみな、そのように生きることができるわけではありません。歳を重ねるほど、体の不調が出てきたり、家族や友人など、愛する人々との別れがあったり、つらい出来事が増えていきます。

 また、現役時代、仕事がすべてであった人が、リタイア後にすっかり生きがいを失くしてしまい、孤独になってしまう。そんなこともよく見聞きします。
一茶は六十五歳まで生きました。当時としては長寿を全うしました。

老が身の値ぶみをさるるけさの春


 世間は冷酷にも老いた一茶のことを値踏みするのです。あたかも商品のように人としての価値を見積もるというのです。

 体力が落ち、気力も衰えて労働力にならなくなった高齢者を邪魔者扱いする風潮が当時の日本にもあったのです。
しかし、一茶は世間の冷たい目にくじけることはありませんでした。

死に下手とそしらば誹(そし)れ夕炬燵(ゆうごたつ)


 一茶は五十八歳のときに脳梗塞で倒れてしまいます。一時は半身不随になってしまいますが、奇跡的に回復しました。そんな一茶を見て、だれかが意地悪く「死にぞこない」と揶揄したのでしょう。それに対して一茶は炬燵のなかで聞こえないふりをしているわけです。
  
ことしから丸儲(まるもうけ)ぞよ娑婆(しゃば)遊び


 「娑婆」とは「苦しみが多い現世」という意味の仏教用語です。一度は脳梗塞で死んだ身だったのに、奇跡的にいのちが助かり、ここからの人生は丸儲けだといっています。

 いろいろ不自由なことはあるけれども、命があるだけで十分。「生きてるだけで丸儲け」。この俳句にはそうした前向きな決意がこめられています。

 とくに武士の世にあっては、生にしがみつくことは、潔くない、みっともないことだとされていました。しかし、脳梗塞を乗り越えた一茶からすれば「生きてるだけで丸儲け」なのです。

 誰になんといわれようと、どんなにぶざまであろうと、あるがままに、与えられた命を全うする。それが一茶の美学でした。

 これまで述べてきたとおり、一茶の根底には「あるがまま」の精神が息づいています。この「あるがまま」の精神はじつは浄土真宗の開祖、親鸞の教えに基づくもので、「自然(じねん)法爾(ほうに)」といいます。

 一茶の故郷、信州柏原はもともと三河に住んでいた真宗門徒達が江戸時代初期に国払を受け、放浪した末にたどり着いた土地でした。一茶はかれらの子孫にあたり、代々、一茶の家は敬虔な真宗門徒でした。

 そのため一茶の俳句や生き方には親鸞の教えが色濃く現れています。

ともかくもあなた任せの年の暮れ


 娘のさとを亡くした一茶ですが、いまだその心の傷も癒えないうちに、その年も暮れようとしていました。

 「あなた任せ」という言葉は、いまでは他人任せで無責任といったマイナスの意味で使われていますが、もともとはまったく別の意味の言葉です。

 「あなた」とは、本来、極楽往生に導いてくれる阿弥陀仏のことを指します。したがって、「あなた任せ」とは、「阿弥陀仏の力を信じ、あるがままの心ですべてをお任せする」という、本来の意味での「他力本願」です。

 一茶にとって、この世を生きていくのは大変、苦しいことでした。愛しいさとも失ってしまいました。長く生きていると、いろんなことがあるけれども、ともかくも一切を阿弥陀仏にお任せして、あるがままに生きようと言うのです。

 人間は誰しも弱い存在です。一茶はその弱さを決してごまかしたりせず、あるがままに自分の弱さを見つめ、悲しい時は、大いに悲しみ、つらいときには大いに嘆き、喜ばしいときには大いに喜びました。

 そして自分の弱さを知っているからこそ、自分以外の弱い存在に力を貸そうとしました。

痩蛙負けるな一茶是に有


 一茶の俳句や生き方には現代を生きるヒントがたくさん詰まっています。

       












posted by 花井英男 at 21:13| 文学・芸術

2022年05月01日

揚輝荘散歩と日泰寺へお参り

揚輝荘散歩と日泰寺へお参り

2022年4月30日(土)


覚王山に散歩に行こうと気軽な気持ちで出かけた。
覚王山はほんとに久しぶりだ。

 以前に家内と出掛けた。その時、久しぶりに教え子たちと偶然出会った。
コルセットとサポーターをつけ、楽に歩こうという気持ちだ。
地下鉄の1番出口付近は、賑やかな商店が並び、つい買い物したくなるような小物を売っていた。

 少し歩いたところで、お茶でも飲もうということで店に入った。一服して、歩き始めて、揚輝荘(ようきそう)案内の看板を見て、揚輝荘北園のほうへ歩いた。結構、距離があった。日泰寺参道から結構歩いた。

 高級住宅地帯の入り口と揚輝荘北園の入り口は同じのようだ。揚輝荘の歩道を歩くようにという指示が出ていた。入り口で、ボランティアの方たちが、親切に案内をした。新緑で今が最高の時だ。

 昔、来たときは、工事中だったか、あまり感動しなかった。今回は、順路が示してあって、順に見て回り、ゆっくり解説を読んで、歩けた。今が、ちょうど新緑の時期で、雰囲気がよかった。写真に記録しておこうと思った。

 伴華楼(ばんがろう)という名前が面白い。どうしてもバンガロウという現代の言葉を思い出してしまう。これは、徳川家の座敷に洋室を付け加えて建築されたものという。

 白雲橋という池の上にかかる長い橋が見ものだ。ここは立ち入りできない橋だ。北庭園のシンボルという。この広い橋の上で、演奏会とか、演技をするようだ。写真にとれる景色だ。修学院離宮の千歳橋を模したという。

 少し歩くと、三賞亭という茶室があった。東洋風の建物として写真を撮りたくなった。珍しい植物が植えてあり、名札が付けてあった。ゆっくり見たかったが歩いてしまった。

 南園に行くための狭い通路が延々と続いていた。高級住宅のすきまをぬって歩く形であった。住宅に住む人に迷惑をかけないように静かに歩くように指示が出ていた。こんな風になっているのかと気づいた。

 南庭園には、回遊式枯山水石庭があるということだが、見損ねた。名石、奇石に、五輪塔、大灯籠などがあったというが見逃した。聴松閣という3階建ての迎賓館。外観は「ハーフチンバーの外観」という紹介だが、伝えにくい。チンバーというのは、英語のtimber 「木材」。ハーフ、半分。半分木造建築いうことか。

 中は、食堂暖炉、書斎、応接室、寝室、食堂、廊下ホール、食堂、サンルーム、トイレ、更衣室、舞踏場舞台、舞踏室、地階室などなど地階から2階まで色々な部屋があった。今は、エレベーターが設置してある。

 一番、感動したのは、伊藤次郎左衛門介祐民についての記述である。それは、「1933年(昭和8年)、自らが定めた55歳定年によって公職の一切を辞し、財団法人衆善会を設立すると共に翌1934年にはビルマやインドへ仏跡巡拝の旅に出た。この旅については後に全国各地で講演会を行なっている。

 そのインドでの仏教遺跡巡礼の旅のフィルムが見られたということ。

  2008年 聴松閣、揚輝荘座敷、伴華楼、三賞亭、白雲閣が、名古屋市指定有形文化財に指定。

  2013年 聴松閣開館。

  南園 一般 300円 

  北園  無料

  地下鉄 東山線「覚王山」1番出口から北へ約10分。












posted by 花井英男 at 17:10| 日記

2022年04月29日

ミロ展

開館30周年記念

スペインの巨匠、

Joan Miro and Japan

ミロ展

日本を夢見て


2022 4/29fri―7/3sun

愛知県美術館

愛知芸術文化センター10階


ミロという画家には全く関心を持っていなかった。日曜美術館でも取り上げたことがなかったと思う。広い会場の中に並べられた作品を順に見ていった。

初期の作品には、あまり興味を持てなかった。バルセロナに生まれた芸術家ジュアン・ミロ(1893−1983)は、現代スペインの巨匠だということだ。ピカソと並ぶ人物だという。

若いミロは、日本にあこがれ、浮世絵や民芸、焼き物、郷土玩具、版画など、台所で使う使う「たわし」、商人が仕事に使う、藍で染めた「前掛け」まで集めていた。何から何まで日本びいきであった。

書も絵もたわしも、前掛けも、俳句も、日本の伝統的な美に深く共鳴していた。こんな人がいたのか!!20年ぶりのミロ懐古展だという。ここを見ろ!という主催者側の意気込みがわかる。

ミロは長い間、日本を夢見ていたという。73歳で念願の日本に来られた。憧れの日本各地を訪ねた。京都、信楽、名古屋は、守山区翠松園の加藤藤九郎の窯元にも来たという。翠松園は、初任校・県立緑が丘商業高校・現緑が丘高校の隣接地域だ。信楽では、大きなタヌキをなぜたという。

会場には、ミロのアトリエや家にある、日本のものが、たくさん、ミロの制作意欲を刺激したと思われる、品々が日本へ里帰りして、展示されていた。

私は、好きな絵葉書を2枚買って帰った

 ミロの出身地と生涯を過ごした土地について、知っていることがいいと思った。

 ミロは1893年、スペイン、カタルーニャ地方の中心都市、バルセロナに生まれた。ちなみに、ガウディ、ダリもカタルーニャの出身である。

 1930年代から、ミロはマリョルカ島(スペイン領)のパルマ・デ・マヨルカにアトリエを持ち制作した。

 1970年には、日本万国博覧会(大阪万博)のガス館に陶板壁画『無垢の笑い』を制作するため来日した。

 ミロは1983年12月25日、アトリエのあるパルマ・デ・マヨルカで老衰のため90歳で死去した。
 
 瀧口 修造(近代日本を代表する美術評論家、詩人、画家。)と親交があったという。
 瀧口 修造は、1966年に日本展開催のために来日したジョアン・ミロと出会い、後に共著詩画集『ミロの星とともに』(1978年、平凡社)を刊行した。
 



posted by 花井英男 at 17:57| 文学・芸術