2019年07月12日

日本のふるさとを描く画家・原田泰治 ―その生い立ちー

日本のふるさとを描く画家・原田泰治
―その生い立ちー




ラジオ深夜便の「明日へのことば」は、いい番組だ

今朝は、原田泰治の生い立ちを聞いた。
日本のふるさとを描く経緯を聞いた。



1940年長野県諏訪市生まれ79歳、1歳の時に小児まひにかかり両足が不自由になった。
大学卒業後は故郷諏訪市でグラフィックデザイナーとして仕事をする傍ら、少年時代を過ごした田舎をテーマに絵を描き始めた。


全国各地を取材した詩情豊かな作品は、1982年4月から2年半に渡り全国紙の新聞に掲載された。
日本から失われつつある故郷の風景や祭り、風物史など後世に残しておきたい風景を描き続けた。


諏訪市の看板屋さんの家に生まれた。
兄弟4人で一番下。
諏訪市から飯田(伊賀良村)に疎開して開拓農民として父は仕事をした。
母親(38歳)は2歳の時に、原田泰治さんの看病疲れで亡くなる。
父は、後妻に体の不自由な奥さんに選んだ。

原田泰治は、今あるのは、このお母さんのおかげだと言う。
大変親切に育ててくれた。
僕のことを考えてくれたのか、足の悪い新しい母親と一緒に飯田で過ごすことになった。


4,5歳のころ動けないので高台の家から風景を眺めていましたが、それが原点になったと。(鳥のような俯瞰的な目)


子どもたちが、泰治を遊び場へ友達に背負ってもらっていったが、
子どもたちは、泰治をおいて遊びに行ってしまった。


泰治は、動けないので自分で一人で草花など見て遊んでいた。(虫のような目)
見ていていろいろ発見があった。
四季の移ろいの風景を飽きずに見ることができた。


その後また諏訪に戻ってきて、中学、高校は諏訪で過ごした。
中学では空を描いていて、先生からはあまり描かなくていいから要領がいいと言われて、自信を失い絵は駄目だった。


父の兄弟は12人いて4人は芸術家だった。
叔父さんが銀座でデザインスタジオを20人ぐらい使ってやっていたのでそこへ行けばいいと思っていたが、もう時代が違うから高校大学に行くべきだと諭された。


それまで勉強は何にもやっていなかったので、定時制の高校に行くことになった。
経済的な理由で定時制に来ている人が多くいて優秀だった。
いとこが絵を描いていたので、自分でもやろうと思って定時制に行きながら昼間は絵を描いていた。


全国高校生ポスター募集コンクールがあり、愛鳥週間のポスターで佳作に入って自信がついた。
6か月後に林野庁の募集があり、全国で2位になった。(応募は4000点ぐらい)
副賞としてスチール製の本箱が届いた。
美術の道に進もうと決心した。



大学入試では、デザインは落ちてしまって、油絵をやっていたので洋画へ入ることになった。
デザインに入りたくてその授業に行ったが、先生から文句を言われてしまった。



もう一度デザインの基礎から一生懸命勉強し、いい成績で卒業出来た。
おじさんの会社に入ったが、5か月でやめた。
足が悪いのでラッシュアワーの通勤が厳しかった。



諏訪に戻ることにしたが、デザインの仕事は何もなかった。
23,4歳で結婚して、地方の集落を回って展覧会のPRをした。
飯田、諏訪の町から仕事が来るようになって食べていけるようになった。


新聞にクロアチアの素朴画というものがあり、イワン・ラツコビッチという作家が自分の故郷をこよなく愛して、故郷のために描いている画家いるという事が書いてあった。



自分も故郷を描こうかなあと思って、それが発端で仕事の合間に描いた。
最初は伊賀良村を描いた。
40歳で小学館絵画賞を受賞、故郷を描いたもの。
絵とデザインの両輪で生きて行こうと思った。



2年後に全国紙の日曜版に紙面の半分を使って絵を掲載する仕事が舞い込んできた。
その後全国を歩いてやってほしいといわれ、文章も書いてほしいといわれた。
最初は文章を書くのが大変でした。
ファンレターが来て、その中に80歳のおばあさんから楽しみにしていますという手紙が来て、そのおばあちゃんのために書こうと書き始めたら文章が良くなってきた。


NHKの「明るい農村」もとても参考になった。
幼児体験もあり、何でもないようなところを描いた。
毎週の掲載なので当時睡眠時間は3、4時間ぐらいだった。



写真もたくさん撮った。
今でも空から描き、その上に段々絵を乗っけていく。(遠い所から描く。)
人物には目鼻は描かなかった。



1年で終わるつもりだったが、2年やることになり、最終的には2年半になった。
1998年に原田泰司美術館ができた。
日本っていいなあ、日本の四季はいいなあと思った。



観光地だけではなくちょっとした集落へ寄ってみるとか、自分で旅を発見する時代になってきているのではないかと思う。
現在、 自分の故郷を描く絵画コンクールをやっている。



自分の目には伊賀良村というフィルターがあり、それを通しながら見ているかもしれない。
足が悪いためのそのおかげで限定した世界を見つめ、それでヨーロッパの絵を描いても伊賀良村が出ていく。


人間は掘り下げた故郷の見方をしてゆくと結構、絵に忠実にでてくると思う。
自分の故郷を描いているのは少ないと思うので、長野県の合併前の故郷(○○村)を描き残したいという事と、子供たちに絵の楽しさを伝えたいし、障害者のためにバリアーフリーの運動も始めた。


以上の文章は、NHKのラジオ深夜便
明日への言葉


原田泰治(画家)・にっぽんのふるさとを描く


から引用しました。

すばらしい放送をありがとう!!!




posted by 花井英男 at 16:40| 文学・芸術

2019年07月08日

絵本作家 かこさとしの残したもの

絵本作家 かこさとしの残したもの


今までかこさとしという絵本作家について関心がなかった。近く、日本全国で、
「かこさとしの世界」が、開催される。愛知県にも来るようだ。
日曜美術館を見ていて、すごい絵本作家だと思った。


経歴をみると次のとおり。少し引用が長くなる。
「福井県今立郡国高村(現在の越前市)に生まれ、8歳より東京市(現在は東京都)板橋区に育つ。旧制成蹊高等学校から、東京大学工学部応用化学科に学ぶ。

卒業後、昭和電工に入社する。川崎市などでセツルメント活動(東大セツルメント川崎古市場)や、児童向け人形劇、紙芝居などの活動を行う。」

かこさとしが、セツルメントでの活動で子供たちが楽しく遊べる場を作った場面を見て、こういう人物かと思った。

会社員を務めながら、子供たちにボランティアで活動した。
これは本物だと実感した。

次に絵本の紹介が始まった。

「最初に手がけた絵本は、ダムがどのように人々の生活に役立っているかを示した『だむのおじさんたち』(1959年)。47歳で昭和電工を退社した後は、フリーで多作な活動を行うようになる。

だるまちゃんとてんぐちゃん』(1967年)に代表される「だるまちゃん」シリーズなどのユーモラスな絵本から、『かわ』(1966年)、『たいふう』(1967年)などのいわゆる科学絵本に至るまで、幅広い作風を誇る。


絵本にあまり関心のない私が見ていて楽しくなるような内容だ。
私も、絵本を図書館で借りて読みたくなった。


「からすのパン屋さん」

「ささやくかぜ
  うずまくかぜ」

「あそびずかん」

「みずとはなんじゃ?」


地方の図書館から、「絵本 ▽ 読書の間口を広げられる科学絵本を!」という紹介がなされている。


次のような記事も紹介されていた。

平和への願い 絵に込めた父 「かこさとしの世界」ひろしま美術館 長女が解説
平和を考える地、広島での展示会開催を喜んでいたかこさとし。

敗戦で自らの生きる意味を見失なったかこさとしにとって、「生きる意味があるとするなら、未来を築く子どもたちの助けになること」。


「その思いを胸に目の前にいる子どもたちに向けて紙芝居を作ったりお話しを聞かせたりというボランティア活動を始めました。」


かこさとしの原点はここにある。

デビュー以前のその当時の作品から近年の作品に至るまでを、実際の絵を前に長女が解説しました。



posted by 花井英男 at 18:07| 文学・芸術

2019年06月23日

沖縄全線戦没者追悼式 「平和の詩」

6月23日(日)、慰霊の日、沖縄県主催  沖縄全線戦没者追悼式が糸満市の平和祈念公園で行われた。

お昼の時間にNHKで放送した。

玉城知事の平和宣言を聞いた。政府に話し合いを通じて、辺野古の基地移転取りやめを求めて行く姿勢を応援したい。

軍事による平和ではなく、話し合いによる平和を希望します。

狭い沖縄に、日本にある米軍基地の70%以上を沖縄が負担している現状。


ひめゆり平和祈念資料館では、展示が今の若い人に、ピンとこないという感想を聞いて、展示内容に工夫をこらしたいと伝えていた。


「平和の詩」が小学生によって発表された。

ここに引用させていただく。

「本当の幸せ」

           糸満市立兼城小学校6年 山内玲奈

青くきれいな海
この海は
どんな景色を見たのだろうか
爆弾が何発も打ち込まれ
ほのおで包まれた町
そんな沖縄を見たのではないだろうか

緑あふれる大地
この大地は
どんな声を聞いたのだろうか
けたたましい爆音
泣き叫ぶ幼子
兵士の声や銃声が入り乱れた戦場
そんな沖縄を聞いたのだろうか

青く澄みわたる空
この空は
どんなことを思ったのだろうか
緑が消え町が消え希望の光を失った島
体が震え心も震えた
いくつもの尊い命が奪われたことを知り
そんな沖縄に涙したのだろうか

平成時代
私はこの世に生まれた
青くきれいな海
緑あふれる大地
青く澄みわたる空しか知らない私


海や大地や空が七十四年前
何を見て
何を聞き
何を思ったのか
知らない世代が増えている
体験したことはなくとも


戦争の悲さんさを
決して繰り返してはいけないことを
伝え継いでいくことは
今に生きる私たちの使命だ


二度と悲しい涙を流さないために
この島がこの国がこの世界が
幸せであるように

お金持ちになることや
有名になることが
幸せではない


家族と友達と笑い合える毎日こそが
本当の幸せだ
未来に夢を持つことこそが
最高の幸せだ

「命どぅ宝」
生きているから笑い合える
生きているから未来がある

令和時代
明日への希望を願う新しい時代が始まった
この幸せをいつまでも





posted by 花井英男 at 13:47| 戦争・平和